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2005年06月09日

千葉消防徒然話 その18

千葉消防揺籃物語
消防レインジャー/特別救助隊・レスキュー編
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>masa様

千葉市 TAK


先日、千葉消防揺籃期の話として水上消防・中高層建物消防の書き込みをいたしましたが同様に、災害人命救助に対処するレスキュー隊についても、もちろん千葉県においては最初は何も無かったところから揺籃パイオニアとしての役割を担ってきました。
話はやはり古く昭和41年から始まります。


昭和41年9月20日に緑町(現、稲毛区緑町)の千葉市消防署(後の中央消防署)西千葉出張所に本部警防課直轄の消防特別救助隊が千葉県で初めて活動を開始しました。
事前に7月に横浜市消防局に合宿に赴いて直接指導を受けた後に正式開隊しました。(先日、ネット上で公開されていた千葉市政PRビデオ昭和42年製作千葉消防編で、設立されてそれほど時間の経っていない当時の特別救助隊のプロフィールをご覧になった方々も多いと思います。)
当初の隊員は11名で隊長と隊員10名が2交替でした。

最初は新規購入32m梯子車(ちば24号)が11月に届くまでは呼吸器や油圧救助器具などを積載したトヨタのダイナの幌付きトラックの資機材搬送車(ちば33号)が特別救助隊の機動力でした。
おそらく横浜消防に研修を受けに行った時もこの車両に機材を乗せて出向いていったのではないかと思われます。
(救助工作車はその時点ではまだなくて、奈良屋火災の年・昭和43年末12月に購入されました。)
なぜ、特別救助隊の駐屯地が西千葉出張所だったのかというと、当時の吾妻町の千葉市消防署本署の車庫は狭くて奥行きも高さもなくて同年11月に特別救助隊用に新規購入された32m梯子(ちば24号)が入らないので西千葉出張所の空きスペースを利用してスレート葺きの梯子車用車庫を建て増しして駐屯することにあいなりました。
西千葉出張所は出張所の中では一番、千葉市消防署本署や県庁・市役所といった市中心部に近い地理的条件だった点が好都合だったのでしょう。
ちなみに当時の特別救助隊員の服装は水色の安全乗車帽に紺の作業服上下(執務服)、火災出動時は銀色のアルミ吹き付け防火上衣着用でした。
当時千葉市消防本部はすでに千葉市消防署本署配備の千葉県第一号の昭和35年式18m機械式梯子車(いすゞTX641改)を所有していましたから千葉消防所有の梯子車としては2台目でした。

なにせ、かの東京消防庁にさえ昭和41年当時、消防特別救助隊はまだ設立されておらず、先行ポンプ車乗車の専任救助隊(東京消防庁での正式呼称は「救助隊」)や出張所ベースでの先行員が最前線で活躍していた時代でしたから、当時県庁所在地とはいえ、ほんの片田舎だった千葉市にとっては消防特別救助隊創設というのは、かなり思い切った先進的な決断だったわけです。

消防特別救助隊は当時は今でこそ標準的な呼称になった「レスキュー」という呼び方ではなく、「消防レインジャー」という呼び方でマスコミ的にも国レベルでも一般的に通用していました。
なぜ、当初は「消防レインジャー」と呼ばれていたのかというと、
消防特別救助隊を初めて創設した横浜消防は陸上自衛隊のレインジャーのメッカ、陸上自衛隊富士学校にてレインジャー課程訓練を受け、それを基礎にして消防救助技術を確立したようです。
そこから消防レインジャーの呼び方が始まって次第に定着したようです。
従来の一般の消防隊員では活動が困難な垂直高層化した建物と災害の複雑多岐化に対処できる特殊技能を修得した特殊部隊の意義からも軍隊組織に準ずる消防組織にとって「レインジャー」の呼称がちょうどぴったりだったのでしょう。

ちなみに、横浜市消防局オフィシャルホームページの「沿革」の記事に

・1963年(昭和38年)7月 レンジャー隊員陸上自衛隊にて訓練。

・1964年(昭和39年)8月 局機構改革により救助課新設、消防特別救助隊事務開始。

との記述が見られます。

また、参考までに、他消防においての記述では、
昭和43年に設立された静岡県富士市の市広報誌 昭和46年6月20日 91号 「消防レインジャー部隊」に関しての記事よりの引用で、

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住宅の高層化などで最近の火災は複雑化してきています。
こうした状況に対応するため、市消防本部は43年にレインジャー部隊を組織し、昨年ははしご車を購入しました。
レインジャー部隊は隊員16人。はしご車の使えない市街地のビル火災など、特殊火災の消火や人命救助を行ないます。
このため非常に危険が多いので、ふだんから厳しい訓練を行なっています。
さきごろも須津川上流の成谷堰堤で、救命索銃発射訓練、水平ワタリ、モンキーワタリ、持久走などの総合訓練を行ないました。

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この記述が「消防レインジャー」の役割と存在意義を端的に記述しています。

先出の横浜市消防局オフィシャルホームページの「沿革」の記事に

・1969年(昭和44年)6月 「第1回都市消防レンジャー技術大会開催,参加25都市、200人」とありますので、この時点では「消防レンジャー」の呼称が明らかに一般的にも自治体消防機関レベルでも国レベル(自治省)でも通用していたことになります。

現在一般的に使われている「レスキュー」の表現は東京消防庁が特別救助隊員のワッペンに書き込んだりした「TOKYO RESCOUE」の文字で使い始めたところからと思われます。
ちなみに世界標準では「レスキュー」の呼称が使われています。
2004年の某大新聞記事では「レスキュー発足30周年」などと書いていましたから、確かに東消庁特別救助隊発足から換算すると30年ですから、実際にはすでにその10年ほど前から消防特別救助隊制度は存在していたことになります。
ちなみに先日4月にイカロス出版から発売されたムック、「消防レスキュー隊」には「日本初のレスキュー隊」は各自治体消防機関それぞれの設立条件がばらばらなのでどこが「日本初」なのかは調べがつかないと書かれていますが、私、千葉市TAKの独断と偏見で申し上げれば、栄えある「レスキュー隊」第一号は昭和8年6月に設立された警視庁消防部(東京消防庁の前身)神田消防署の「専任救助隊」。
「特別救助隊」第一号は昭和39年10月の横浜消防の「消防特別救助隊」ということで断言申し上げます。

千葉消防でこの特別救助隊が本格的に実戦投入されたのは前に千葉消防徒然話その2で書いたように昭和43年2月の奈良屋百貨店火災の時でした。
(現、セントラルプラザ建物跡)
奈良屋百貨店に隣接したライオン堂という衣料品店の店舗改築工事現場から出火した火災は燃え広がって奈良屋百貨店にも類焼しました。
この時32m梯子救助車は奈良屋百貨店の屋上に避難した要救助者の救出、および、内部検索にあたりました。
千葉消防にとっての初めての本格的中高層建物火災と救助戦闘となりました。
(奈良屋百貨店火災の詳細は千葉消防徒然話 その2をご覧下さい。)

そして奈良屋百貨店火災を経験した年の昭和43年の暮れ12月には新規購入の本格的な一貫充実した救助装備・資機材をぎ装した救助工作車(トヨタFC100改)が千葉県で初めてお目見えしました。
(それまでは梯子車と幌付きトラックの資機材搬送車のペアで運用されていましたが、実質的には梯子特別救助隊の要素が強かったようです。)
当時、救助工作車という消防特殊車両は、珍しいことおびただしく、なんせ、かの東消庁でさえも救助車の導入はほぼ千葉消防と同時期の登場でしたから、(昭和43年8月1日に麹町消防署永田町特別救助隊が東消庁初の運用開始)それ以前には本格的救助資機材ぎ装を施した救助工作車はおそらく横浜消防しか、まだ、持っていなかったのではないかと思われます。
(先に記述した千葉消防の幌付きトラックの資機材搬送車や、神戸消防等の資機材搬送車的な限定的な呼吸器と油圧救助器具を積んだ小回りの利くジープに類する車両はある程度あったようですが。)
この新型救助工作車の導入をもって千葉消防の特別救助隊はそれまでよりさらに本格的な人命救助体制を有することになったわけです。
守備範囲はもちろん市内全域、東西南北、すべての方角を駆け巡っていました。

当時の千葉消防の救助工作車の雄姿の写真を下記のアドレスにアップロードしておきます。
ご覧になってみてください。
かなり貴重な資料と言っても差し支えないと思います。
(一番最初に特別救助隊に配備されたトヨタのダイナの幌付きトラックの資機材搬送車の写真もアップしてあります。)


http://www1.plala.or.jp/TAKSOHO/CFD/R81/


車両前部には運転席と指揮官席のシングルシートのみで、車両最後尾部分に隊員用の乗車ボックスが対面横座りシートで設けられていて、前後部には通路はなく、指揮・連絡は有線のインターフォンで行われていました。
(これが横浜方式ともいえるシステムパターンでした。緊急走行中のサイレン・警鐘・消防無線の鳴り響く中で、インターフォンのやり取りの音声を聞き取るのはなかなか大変だったのではなかったのかとも思われます。)
フロントウインチは張り出しバンパーに装備されていました。
夜間活動用の現場照明設備も十分なものを備えていました。

この救助工作車が積載していた装備リストを下記にあげておきます。
ボディーの観音開きドアに貼り付けてあったチェックリストを当時抜け目なく
書き抜きしておきました。
これもなかなかの貴重な資料です。
アップロードしてある写真と見比べてみてください。
現在の最新式救助工作車と比べてもさほど遜色ない装備の内容です。
いかに一番最初に救助工作車を企画・制作した横浜消防が先見の明をもって救助システムを構築したかが偲ばれます。


■進行方向左側ボディー収納(主に救助対応関係資機材)

・ロープ等    ・エンジンカッター ・ゴムボート1式 ・ボンベ2   
・救命索発射銃 ・チェーンソー    ・胴衣19着    ・背負具2
         ・トラクテル     ・予備ボンベ2  ・足ヒレ
         ・チルホール3式 
         ・滑車1
         ・予備燃料1缶
         ・ドンゴロス若干
         ・シャックル5

これらに加えてボディー下部にガス溶断機(酸素やり)が収納されていました。

(注:”トラクテル”、”チルホール”とも 可搬式ウインチのこと
   ”ドンゴロス”は救助作業時、当て布などに使用する毛布のこと
   ”シャックル”は重量物移動・引き上げ用の吊り下げ式簡易クレーン装置)


■進行方向右側ボディー収納(主に火災対応資機材関係)

・500W4   ・放射能防護服2   ・電気毛布2   ・ボンベ2   
・200W10  ・放射能測定器1式 ・昇柱具2     ・背負具2
・ゴム手袋   ・ガス検知器1    ・ヘルメット1   ・足ヒレ
・コードリール ・削岩機       ・夜光服
 あり5     ・レサシテーター1  ・サルベージシート
・コードリール ・防火衣12着    ・チェーンソー
 なし5               ・シーバー
                   ・皮手袋 

(注:”レサシテーター”心肺蘇生用人工呼吸器のこと)


■その他

・シャベル類はボディー最後尾両側に装着

・車両最後尾隊員乗車室の奥には空気呼吸器関係が走行途中で着装できるように多数格納されていました。

・ボディー上部

鋼管製三連梯子 鉤付き梯子 救助用担架 投光器用コードリール等が見受けられます。

・リスト記載外で格納場所不明

スローダン(緩降機) 油圧救助器具 救助用縛帯 救助マット 耐熱服 ハンド型拡声器


そして千葉消防にとっての悪夢の田畑百貨店火災は奈良屋百貨店火災の3年後の昭和46年5月に起こりました。
この時は中央署本署の昭和35年式18m機械式梯子車(いすゞTX641改)、北署本署の昭和45年に日本損害保険協会から寄贈を受けたばかりの15mシュノーケル車(日野TE120改)とともに臨場し、逃げ送れた田畑社長の初期救助戦闘から開始されました。
田畑社長の睡眠していた社長室から進入して検索を開始し、デパートの屋上からも同時進入検索しようとしたのですが猛烈な熱気と濃煙に阻まれて残念ながら社長さんを救助することはかないませんでしたが、戦闘の最初から本格的救助活動を実施したわけです。
そしてその後も長時間延焼防止戦に悪戦苦闘した防御戦闘部隊の作業の安全をバックアップしするという大切な任務を遂行しました。
(32m梯子救助車は救助戦終了後、移動転戦してデパート建物正面で梯上放水作業に鎮火まで従事しました。)
まるで溶鉱炉のように高層建物内部で高熱で燃え盛る濃煙のたちこめる足場の極めて悪い火災現場は言うまでもなく危険極まりないわけで、現場最高指揮官の大石局次長の配慮で、何とか消防関係者に関しては大きな事故もなくデパート建物のみの焼損で鎮火に漕ぎ着けたのはそれだけでも幸いなことでした。

その後、千葉消防の特別救助隊は2隊目の畑特救隊(のち、西千葉特救隊、臨港特救隊となり、現在の中央特救隊)、3隊目は都賀出張所に中央特救隊(のち、新設の殿台出張所に移動、現在の若葉特救隊)、4隊目は政令指定都市移行時に新設された緑特救隊と千葉市の発展拡大に伴って順次整備されていきました。
一番最初に設立された本部警防課直轄特救隊は美浜署新設の際に隊駐屯地は真砂の救助救急センター所在のままで美浜特救隊として美浜署に移管され現在に至っています。
(2隊目の畑特救隊設立の経緯については千葉消防徒然話 その6をご参照下さい。)

救助工作車も中央特救隊(都賀)、臨港特救隊、緑特救隊と増え続け、現在では中央特救隊(臨港)、美浜特救隊(救助救急センター)、若葉特救隊(殿台)、緑特救隊(緑署本署)の4台で市内をカバーしているわけです。
(臨港特救隊に救助工作車が増強配備された経緯については千葉消防徒然話 その16をご覧下さい。)
現在は4隊ともすべて救助工作車(R)と梯子救助車(LR)のペアで運用されています。
出場区域や災害種類、出動指定順位に応じて救助工作車と梯子救助車を乗り分けているようです。
例えば、中央区新田町の中高層建物火災第1出動の場合、最先着の中央特救隊は梯子救助車で、次着の若葉特救隊は救助工作車に乗って出場するといった具合です。
ただ、平成4年4月1日に千葉市の政令指定都市移行になって同時に緑特救隊が増加配備された以前には、しばしば同一特救隊でRとLの分乗出場が見られました。
例えば、臨港救助隊(現在の中央救助隊)、殿台の中央救助隊(現在の若葉救助隊)は千葉市中心部の中高層建物火災出場の際は自署所の初動の先着出場区分の際には同一隊で救助工作車と梯子車の2台に分乗して現場に出ていました。
具体的に言えば、例えば富士見1丁目で発生の中高層建物火災出場の場合、先着の臨港特救隊は臨港救助工作車(R)と臨港梯子救助車(LR)を同時に分乗して現場に出して、次着の中央救助隊は殿台Lとして梯子車のみで出場(特救隊としてではなくあくまでもL隊として)という図式があったわけです。
当時は残りの美浜救助隊を加えても3隊しかありませんでしたから残留警備のことを考えると特救隊1隊を残せる合理性を考慮していたのかもしれません。
緑特救隊が増設されてからはゆとりができたからでしょうか。
救助工作車と梯子車への分乗出場は最近は見られなくなってきているようです。
県消防学校や局消防学校への訓練出向の際にも以前は大体、救助工作車と梯子車の2台に分乗して出向いていましたが、最近は梯子車を車庫に残して救助工作車のみで出向している例も多いようです。
局全体で梯子車の数が充実したせいもあるのでしょう。

それにしても一番初期の特別救助隊組織を立ち上げてから奮闘しながら千葉市民の生命を守って今日に至るまで戦い続けてきた隊員の皆様に心より感謝と敬意を表するものです。
また、つい最近報じられた話しとして、総務省消防庁は、大規模災害時の消防・救急救助体制を強化するため、最新の装備を持ち高度な訓練を積んだ「特別高度救助隊」を全国の政令指定都市に整備する方針を固め、次年度予算の概算要求に盛り込み、早期の実現を図るということのようですが、千葉消防においても遠からず「特別高度救助隊」新編成に関しての新たな動きが見られることでしょう。

以上、徒然のままに。

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投稿日:2005年5月28日
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投稿者 taksoho : 2005年06月09日 05:31

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