2005年06月09日

千葉消防徒然話・ブログについてはじめに

このブログは私千葉市 TAKがmasaさん主催の千葉消防関連掲示板に投稿しました千葉消防徒然話と銘打った一話完結型の千葉市消防本部時代から始まって、現在の政令指定都市としての千葉市消防局に関わる話題をあれこれ徒然なるままに書き込んだエッセイ調の読み物です。
幾名かの方から、もう一度読み返したい記事の過去ログをたどって記事を探すのが大変だとのお声をいただき、書き込んだ千葉消防徒然話の書き込み全話とそれに付随した番外編と、ついでに過去に別BBSに書き込んだ記事から興味深そうな書き込み記事をピックアップして、最近、とみに話題沸騰のブログ(WEBLOG)形式のページを立ち上げてみました。

投稿者 taksoho : 05:00 | コメント (0)

千葉消防徒然話 その1

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>masa様

千葉市 TAK

ここのところ掲示板への書込みがちょっと不活発なようですので徒然話でも。

Q:千葉消防のポンプ車両にあって、他消防の車両にないものなーんだ?

そう、突然いわれてもなかなか思い付かないことと思います。
例えば、合同災害演習など各地の多数の消防機関の車両が一堂に集結した場合、側面ドアの消防機関表示が読み取れないことが多いですし、千葉ナンバーのプレートだけでは千消とは限らないし。隊名標識灯は「中央消防署」などとしか書かれていないし。

実は最大の見分けポイントは車体後部両側のソフト吸管を丸めたその真ん中にある四角い収納ボックスです。
東消のポンプなら普通接合金具とその工具がぶらさげてあります。
時には他の消防ではホースバッグを吊ってあったりもします。
でもこんな所に収納ボックスがあるのは千消の車両くらいのものです。
私の知る限りでも千消しか知りません。
この横開きの箱って一体なんなんでしょうか?
ミステリアス・・・

これは実は空気呼吸器の収納ボックスだったのです。
今現在は千消では空気呼吸器は隊員乗車席の後ろに積んであるようですが、かつては災害現場に現着した後でこの両側の箱を開いて隊員が空気呼吸器を取り出して空気ボンベを背負いこんで
いました。
TVの特番物などを見ると消防機関によって乗車前に呼吸器装着するところもあれば、乗車してから走行途上で車内で装着するところもあるようで様々です。
合理性から言ったら車内装着が一番ですからね。

なお、現在はこの箱は接合金具などの雑多な収納スペースになっているようです。
この箱は私が物心ついて千消のぞきをはじめた頃にはすでに付いていましたのでいつが起源なのかは
不明です。(笑)

以上、徒然のままに。

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投稿日:2000年12月6日
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投稿者 taksoho : 05:04 | コメント (0)

千葉消防徒然話 その2

奈良屋百貨店(現セントラルプラザ)火災
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>masa様

千葉市 TAK

先日の12/13に読売新聞でセントラルプラザの32階の高層ビルへの建替え計画が報じられていましたが、あのセントラルプラザのビルには特別の思いがあります。
というのは、あのビルから千葉消防の近代的な中高層建物の火災防禦、および救助活動の歴史が始まったからです。

昭和43年2月27日の木枯らしの吹きすさぶ寒い頃でした。
(何と古い話なんでしょうか!?)
現在のセントラルプラザはその当時は奈良屋百貨店、現在の千葉駅近くの千葉三越デパートの前身が営業をしておりました8階建て中高層店舗でした。
その頃はまだ中高層建物なんてあまり数がなかった頃で、他には県庁、市役所(今の千葉県企業庁の
建物)、県警本部、扇屋百貨店、田畑百貨店、千葉駅ビルくらいしか記憶がありません。
夜7時少し前くらいだったと思いますが火の手が上がりかなり遠くからでも空が赤く染まって見えました。
正確には奈良屋百貨店に隣接したライオン堂という衣料品店の改築工事現場から出火しました。
私もまだほんのガキだったのですがまったく偶然にも現場から遠くないところに居合わせておりましたのでさっそく野次馬した次第です。
私が息せき切って現着したときにはすでに出火元のライオン堂改築現場から隣の奈良屋に延焼しようと
しはじめていた時でした。
7・8階の隣接部分が煙を出し始めており内部にも煙が立ち込めはじめていたようで、屋上には2.3名の人が避難して手を振っているなかなか緊迫した状況でした。

当時千葉市消防本部は千葉市消防署本署配備の昭和35年式18m機械式梯子車(いすゞTX641改)と、昭和41年に特別救助隊に配備された新鋭の32m梯子(日野レインジャーTC30改)の計2台を所有していました。

千葉消防には昭和41年に近代的な消防特別救助隊が創設されていました。横浜市消防局に合宿に赴いて直接指導を受けた後に正式開隊しました。
隊員は隊長と隊員10名が2交替とのことでした。
その時は32m梯子と呼吸器や油圧救助器具などを積載したトヨタのダイナの幌付きトラックの資機材搬送車の2台でペアでした。
(救助工作車はその時点ではまだなくて、奈良屋火災の年・昭和43年の末に購入されました。)
千葉市消防署本署の車庫は狭くて32m梯子が入らないので西千葉出張所に車庫を建て増しして駐屯していました。
当時の特別救助隊員の服装は水色の安全乗車帽に紺の作業服、銀色のアルミ吹き付け防火上衣でした。

ライオン堂の出火元への防禦活動と並行して奈良屋百貨店の正面に32m梯子が横付けされて梯子が
スルスル伸びて行って屋上の要救助者への救助活動が開始されました。
リフターで隊員が要救助者を一人づつ地上におろしていきました。
その横では屋上に設置の丸に「奈良屋」と点燈しているネオンサインに火が燃え移り始めていました。
外からは見えませんでしたが内部進入検索も同時に実施されていたようです。
救助活動を終えてから奈良屋側の本格的な防禦活動が始まりホースの釣り下げ延長や梯上放水も開始しされました。
最終的には奈良屋百貨店は一部焼損(1715平米)で済みました。

ほんとにまだガキだったので記憶が多少あいまいなところがありますが千葉消防の近代的な中高層建物の火災防禦、および救助活動の最初の1ページとしてはなかなか好成績だったと思われます。
新聞も千葉消防はまだ不慣れではあったけれどよくやったと誉めていたのを記憶しています。

以上、徒然のままに。


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投稿日:2000年12月24日
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投稿者 taksoho : 05:06 | コメント (0)

千葉消防徒然話 その3

千葉消防はオレンジだらけ!?
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>masa様

千葉市 TAK


おめでとうございます。
年明けですので賑やかな話題をひとつ。

たしか、昭和52年(あるいは53年かも)だったと記憶しておりますが、突如、臨港消防署本署の職員の皆さんの執務服(作業服)が紺色からオレンジに衣更えされ始めました。
臨港署には昭和50年の新設当時から特別救助隊が配備されていましたので、
千葉消防にもやっとレスキューオレンジ服が導入されたのかいなと思っていると、
臨港署のポンプ車1分隊の隊員の皆さんもオレンジ服を着ています。
まあ、臨港1は消防艇も乗り換え運用していますのでだからかいなと思っていると、順次他署でもどんどんオレンジ服に衣更えされてゆき、とうとう千葉消防はほとんど全部の執務服(作業服)がオレンジに
替わってしまいました。
(たしか婦人消防官のみ紺色の作業服のままだったと思います。まあ、婦人消防官は赤の制服が普段着で、訓練時くらいしか作業服は着てませんでしたから。)
さあ、レスキューのみならず、ポンプ隊も救急隊も梯子隊もみーーんなオレンジです。
加えて、レスキュー隊員は銀色に後頭部に”R ”のオレンジの文字が描かれたヘルメット着用なのですが、その他の隊員の方は作業時、白色の乗車安全帽を着用なので(防火帽着用時以外の例えば出向時や訓練時など)
その時は、セントバーナードのワッペンが付いていない東消レスキューそのもので、つまり東消の梯子隊員の方々とまったく同じの服装なのです。
もちろん各署所の朝の大交替風景はド派手にずらっとオレンジ服が整列している光景が見られます。
知らない他地区の方(例えば都内在住の方)が、この光景をご覧になったら、千葉市消防局はなんと
レスキューと梯子隊が充実している消防機関なんだろうと思われたことでしょう。

数年後に、オレンジ服はレスキューのみ着用になりました。

以上、徒然のままに。


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投稿日:2001年1月9日
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投稿者 taksoho : 05:09 | コメント (0)

千葉消防徒然話 その4

千葉消防の車両記号表記あれこれ
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>masa様
>消防都纏様

千葉市 TAK

こんにちは。
千葉消防の車両記号表記に関しまして先日消防都纏さんと意見交換させていただきましたが、少し古い話も交えてこれについて徒然に記してみたいと思います。

平成4年の政令指定都市になる前の千葉消防の車両記号表記はABCDE・・・に区分されていました。
Aが水槽付ポンプ車。
(例をあげれば桜木1分隊の使用ポンプがA23、無線のコールサインはちば23)
Bが小型ポンプ車。
(例をあげれば桜木2分隊の使用ポンプがB4、無線のコールサインはちば4)
Cが化学車、梯子車、救助工作車等の特殊車。
(例をあげれば中央梯子分隊の梯子車がC17、無線のコールサインはちば17)
最初の頃は本来のCの示す化学車だけでなく梯子車、救助工作車などの特殊車両全般を示していました。
後に(田畑火災以降の昭和47・8年のあたりでしたでしょうか。)
梯子車はL、救助工作車はRと区分が分かれCは化学車専用(高発泡車も含めて。)になりましました。
Dが救急車。
(例をあげれば南署救急隊の使用救急車がD37、無線のコールサインはちば37)
Eが上記区分以外の車両。例えば無線車、火災原因調査車、、資機材搬送車、人員輸送バスなど。
(例をあげれば北署無線車がE52、無線のコールサインはちば52。当時の無線車とは現在の署長用指揮車のこと。)

A23、B4、D37などの車両区分表記は基本的には車両側面両側の運転席、または指揮官席のドア
(ドアのない車両は乗降口)の前上側に描かれるようになっていました。
(トヨタ ランドクルーザーの古いタイプ、いわゆる昔のジープ型を使った小型ポンプ車は正面フロントガラスの下の部分に描かれていました。)

ところが、本来なら統一して全車記される筈の車両側面両側の車両区分表記は書いてある車両、ない車両まちまちで、同じ出張所配備でも小型ポンプ車には書いてあるけれど、水槽付ポンプ車には書いてないというばらばら状態でした。
要は車両ぎ装塗装の段階で書き込まないので、記入は車両新規配備後各署所で各々記入していたことが一番のばらつきの原因だったのでしょう。
(これが東消庁なら未記入はまずありえませんね。)

さらに東消庁でいうところの隊名標識灯がついていましが、これがまたばらばらで表記例は
千葉市消防署、千葉市中央消防署、中央消防署、幕張1、西千葉、警防課、化学車、火災保険号 千葉(寄贈車両なので。)、千葉市消防局、などと、てんでバラバラエティーに富んだ表記が書きこまれていました。
(それはそれでマニアにとっては興味を引かれる面白い部分でしたが)
これは大体昭和55年前後くらいに隊名標識灯は署名表記、つまり南消防署や臨港消防署といった表記一本に統一されました。
まあ、隊名標識灯は表記ばらばらでも千消では昔から所属署名表示旗が掲げられていましたので
(現在も東消庁で使っている演習表示旗と同種類。)
これを見れば所属署が分かったので区分には別に困りませんでしたが。
(旗は現在はなくなっています。)

と、いうわけで車両記号表記記入の有無については昔から統一性がなく、今にいたるまでも未記入車両が存在しているわけでけっこう気分で決まっている雰囲気は昔から今に至るまで変わらずにあるわけです。(笑)

以上、徒然のままに。


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投稿日:2001年4月16日
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投稿者 taksoho : 05:12 | コメント (0)

千葉消防徒然話 その5

東消庁vs横浜消防のとばっちり?
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>masa様

千葉市 TAK

以前に書きました千葉消防オールオレンジ服の頃だったと記憶しておりますが
(あるいは時期が違っているかもしれませんが。)
昭和53・4年前後位のある日突然、千葉消防の各本署、出張所全部の庁舎の前に執務服(作業服)
姿の職員の方が交替で立ち番するようになりました。
部隊の出場時等を除いて朝昼夜と24時間切れ目なく休めの姿勢をとりながら絶えず1名が立っています。
まるで交番のおまわりさんのごとくです。
通行人の人たちはこれはまあ、ご苦労様なことだというような様子で見ながら通り過ぎてゆきます。
大体それが1年間近く継続されたでしょうか。

これのおこりの原因は東京消防庁と横浜市消防局とのライバル意識の結果だといったら皆さんは驚かれるかもしれませんね。
実はこの職員立ち番制度というのは横浜消防がかなり昔から実施してきた歴史ある制度なのです。
建て前えとしては火災発生を駆け込みで飛び込んで知らせてくる通報者に対して庁舎の前で立ち番待機の職員がいち早く受理してレスポンスタイムを1秒でも縮めるという非常に気迫あふれる制度です。
納税者たる市民に対して極めて災害に対する構えが万全であるとういう頼もしいイメージを持ってもらえるということらしいのです。
片や、最も老舗の東消庁ではこの制度はとらず、先日改築完成した蘇我出張所を見ていただければわかるように1階の車庫横の2階への出入り階段脇に表通りを見渡せるガラス張りの通信室が設けられていて職員さんが交替で詰めているあのパターンが東消庁方式の典型です。
ところがこれを東消庁の側ではこの制度の存在を非常に気にしていました。メンツさえ気にしなければ
自分のところでもやりたいという素振りすらありました。

自治体消防機関トップの東消庁のライバルと目されるのは大阪消防、横浜消防、名古屋消防など数々ありますが実際に最大ライバル視しているのがスマートさで鳴る横浜消防なのです。
私の知り合いの東消庁の中堅幹部の方も(当時消防司令さんでしたが)当時お会いするとこのように語っていました。
「横浜消防には負けるよ。特別救助隊は先に作られるし、サルベージ(水損防止作業)も制度化してやっているし、駆け込み通報受理の立ち番もきちんと立てているし。
東消庁は人海戦術一本槍で部隊と人員を大量に出すだけだよ。」

と、いうわけで良い意味の東消庁vs横浜消防の緊張関係が維持されていたようなのですが千葉消防の幹部の方のどなたかが当時何かの拍子にそれを知って、前記の立ち番制度を千葉消防でもやってみようとお思いになったようなのです。(笑)
もともと千葉消防は横浜消防さんの直弟子にあたりますから
(昭和41年の特別救助隊の創設時の研修教育は横浜消防さんから受けました。)
見習ってみようと思い付いたとしても不思議ではありません。
まあ、当時昭和53・4年頃でももうすでに一般家庭加入電話や公衆電話は広く行き渡っていましたから果たして何件駆け込み通報があるのか疑問とする部分は最初から存在しました。
どちらかというと実効性よりも市民にたいして気概をもって望んでおりますというPR効果が主眼だったんでしょうが・・・。
まあ、職員の皆様方にはご苦労様なことで、昼夜分かたず、雨にも負けず寒さにもめげず約1年位でいつのまにか止めになりました。(笑)
千葉消防の当時の職員の皆様、本当にご苦労様でした。

ここのところ横浜方面に行っていないのではっきりとはわかりませんが横浜消防でも今や携帯電話・PHSの普及の結果立ち番はやっていないようですね・・

以上徒然のままに。


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投稿日:2001年6月6日
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投稿者 taksoho : 05:13 | コメント (0)

千葉消防徒然話 その6

知られざる特救隊、畑特別救助隊と出初式のハプニング
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>masa様

千葉市 TAK

昭和41年に千葉県初の特別救助隊が千葉消防に創設されたことは以前に何度も書いております通りですが、第2隊目として設立された特救隊が畑特別救助隊だったことはあまり知られておりません。
昭和47年12月より翌年48年7月の新消防局庁舎
(今の新消防合同庁舎の前の真砂1丁目にあった局本部庁舎)
オープンまでの1年に満たない短い期間でしたので一般に知られていないのは当然のことではありますが・・・。

昭和46年5月の田畑デパート火災、47年3月の仁戸名町の社会保険病院松籟荘火災と現有消防力に限界を感じさせられた千葉消防当局はポスト田畑火災への対応策として大幅増強を計り、まずその第1弾として昭和47年12月に32m新型梯子車(日野レンジャー TC311改)が増強されました。
当時、警防課直轄の特別救助隊は西千葉出張所に駐屯しており救助工作車(トヨタFC100改)と32m梯子車(日野レンジャー TC30改)のペアで運用されておりました。
そこに新規増強の梯子車が届き、日野レンジャーTC30改の梯子車と入れ替りました。
そして新たに北消防署畑出張所に千葉消防第2番目の特別救助隊が設立されて同梯子車が玉突きで配備されました。
(この部隊は梯子車のみの、いわば梯子特別救助隊でした。)
なぜ畑出張所だったのかというのは大型の梯子車を収容できる車庫の幅、奥行き、高さを持った消防車庫施設が北署本署、畑、千城台、蘇我、南署本署などの比較的新しく建てられた庁舎で敷地に多少のゆとりのあるところであること。
(ちなみに西千葉に新規配属された日野レンジャー TC311改梯子車は車長がありすぎて梯子車用増築車庫のシャッターが閉まらなくなり夜間もシャッターを降ろさなくなりました。)
市の南部や東部に比べて北部に比較的中高層建物が多かったこと。
市中心部から離れすぎないことなどから決定されたようです。
畑出張所においても大型梯子車の格納はなかなか大変で、完全には収容しきれず、車庫背面のシャッターを開けっ放しでお尻の部分が建物の外にはみ出していました。(笑)
建物隣にそれまでの車庫からはみ出した救急車収容用のトタン屋根の簡易車庫が作られました。
(現在畑出張所にある化学車、梯子車などの大型車用のコンクリート製増築車庫は当時まだありませんでした。)
ちなみに畑出張所が新築されたのは昭和46年11月ですが、その時北署本署(現、花見川署本署)に配備されていたシュノーケル車(日野TE120改)を移動配備しようとしたのですが車庫の高さが足りず入らず北署本署にシュノーケル車は結局Uターンして戻りました。
(まったく偶然にも悪戦苦闘のその場に私は居合わせました。)
日野レンジャーTC30改梯子車は,ごっついトラス構造梯体のシュノーケル車より車高が低かったので尻はみ出しでも何とか収容できたのでした。

さて、畑特救隊新規オープン後、落ち着く間もなく年明けに昭和48年度消防出初式が1月6日に開催されました。
(当時は今のように1月前半の日曜日ではなく東京消防庁と同じ6日開催でした。)
場所は国道14号線脇の稲毛海岸4丁目の千葉トヨペット本社隣の稲毛公園でした。
千葉消防のありったけの特殊車両。梯子車3台、シュノーケル車1台、救助工作車1台、化学車4台、
水槽付きポンプ車、小型ポンプ車、救急車、消防団ポンプなどが勢揃いしました。
車両分列行進に始まって表彰式、(当時は分列行進と消防演技の間になんと表彰式が入っていたので
観客にとっては少々間延びしていました。)
消防演技と進行して最後の一斉放水へと進んだ時にそのハプニングは起こりました。
4台並んだ梯子車、シュノーケル車がそれぞれ梯体をするする一杯に伸長して放水準備を整えた時でした。
なんと畑特救隊の32m梯子車のほぼ全長まで伸ばした梯子に装着のゴム引きのホースが伸長途中に絡まってしまってそれ以上上げることも縮めることも、もちろん放水することもできずに立ち往生してしまいました。
しばしの中断の後、やむなく梯子車1台欠で一斉放水実施とあいなりました。
式終了のあとも先端部のリフター上の放水員さんがホースの絡みを直そうとしましたが作業に手間取り、
しばらく梯子を降ろせないまま悪戦苦闘の末、ようやく絡まったホースの取り除きに成功しました。
私も当時より現在まであのような梯体故障を目撃したのは後にも先にもあれっきりです。
ああいうことって希にはあるんですね。
と、言う訳で畑特別救助隊さんたちは事態収拾のご苦労様の後で梯子車上で集まってしばしの休息をとりながら隊長さんがため息をつきながら「仕方ないよなあ。」と
部下の隊員さんたちに語りかけていました。
(翌日の新聞の千葉版にこのことは出初め式でのハプニングとして書かれました。)

その年の7月に真砂1丁目の新消防局庁舎がオープンして西千葉の警防課特救隊は近衛部隊として新局本部庁舎へと移動して西千葉のその後には畑特救隊がそっくり移動して新たに西千葉特救隊となり、結局、元の古巣の西千葉へ再度復帰に結果的にあいなりました。
畑特別救助隊の名称は約8ヶ月で廃止になりました。
西千葉特救隊は昭和50年1月の中央署水上出張所の臨港消防署への昇格とともに臨港署に移動して現在に至っています。
ちなみに第3隊目は昭和51年10月に中央署都賀出張所に中央特別救助隊が設立されています。

以上徒然のままに。


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投稿日:2001年7月16日
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投稿者 taksoho : 05:15 | コメント (0)

千葉消防徒然話 その7

千葉消防 日本一/日本初 あれこれ
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>masa様

千葉市 TAK

先日千葉消防で先端屈折式梯子車が日本で初の導入を記念しましたが、これまでにもいくつかの日本一、または日本初の事柄があります。
以下、徒然のままに。


その1

昭和57年3月に新設の臨港消防署真砂出張所
(現、美浜署本署)に当時日本一の高さのモリタ製47.15mの梯子車が導入されました。
(現在の美浜梯子1の車両です。)
年明けの昭和58年度の出初式にはこれをきっかけにして初めて自治省消防庁長官(代理でなくご本人)を千葉の式に招くことができました。
(これは千葉の出初式が1月前半の日曜日に開催されるようになった恩恵で、1月6日では長官は当然東消庁の式の方に優先して行ってしまうわけです。)
ところが昭和58年度中にはこの記録を更新されてしまいました。
なんと同じ千葉県内の船橋消防の日本機械製の48.05mでした。
(もっともすぐ翌年には倉敷市消防局に49.3mが導入されましたが。)
ご丁寧に船橋でなくていいようなものでここらへんに千葉県内の消防機関同士の関係がいまいち友好的でない原因があるようです。

さらに平成5年3月にモリタ製の50.1m梯子車が新設の美浜署打瀬出張所に導入されました。
(日野U−FW2KRAA MLE6−50R)
このタイプはもともと大阪消防・神戸消防が先に導入したもので関東以東では初の50m導入とのことです。
今現在これ以上の50mを超えた梯子車は作られていないようで千葉消防の梯子車もいまだ日本一に列しているようです。
新たな50mを越す高さの梯子車の必要性が果たしてあるかどうかはコストパフォーマンスを考えると
極めて疑問ですからおそらくこの先しばらくはこの日本一が続くことでしょう。
(東消庁は結局40mまでの高さの梯子車しか製作していません。)


その2

昭和50年3月に高圧空気充填車という新ジャンルの車両が千葉消防によって作成されました。
(いすヾフォワードSBR380改)
後に呼吸器充填車と名前が変更されました。
それまでには予備ボンベを運搬するのみの空気ボンベ補給車などは東消庁などにあったのですが空気充填用のコンプレッサーを積載した車両が作られたのは日本で初めてでした。
同時に3本の空ボンベに高圧空気を充填することができました。
このアイデアはグッドで先輩格の横浜消防でも後に採用・製作されています。
現在の臨港署に配備の呼吸器充填車は2代目の車両になります。


その3

現在、千葉消防の本署・出張所にはすべて救急車が配備されています。
(高洲4丁目の救助救急センターを例外として。)
現在第一線車で24台運用されています。
この救急車配備率は一定の規模以上の都市消防機関では日本一と思われます。
(人口10万人に1台の比率とするとなんと300%の充実率に達するわけです。)
出張所ベースでのポンプ2小隊との乗り換え運用だといったご不満の部分は千葉消防フリークの皆さんにはあるものの充実率では日本に誇れるものがあるわけです。
当然、他消防よりも救急車の現着は理論的には多少とも早くなるわけです。

ところで、私個人の私見としては東消庁のPA連携はあまり感心しません。
日頃からあまりスタンドプレー的・情実的にポンプ車部隊を運用しているといざという時、特に大震災時などにポンプ車部隊が救助・救急援助と初期火災叩きとの任務の股裂きになってしまって合流火災発生を招いてしまいそうな危惧があります。
ただでさえ、ポンプ車2小隊が廃止される署所が東消庁内で増えてきているようですし。
水利困難の中で多数同時に発生する火災流をいち早く食い止められるのは地元消防機関の全力投球以外あり得ません。
あくまでもポンプ車隊の救急援助は必要要請に応じた特命事項の範囲内としておくのが賢明と思います。
むしろ救急搬出援助などは地元の市民参加の消防団・ボランティア団体が臨機に有効的に機能して行えれば大震災時対策などにも繋がってくると思われますが・・・。

救急ヘリはこれはぜひ千葉消防でも実現して欲しいところですね。
(3機目の導入ヘリで千葉県中央部をカバーする広域救急行政の一端として。)


その他

水害対策用ホバークラフト、消防庁舎初の免震構造導入など日本初はまだまだありましたね。


以上徒然のままに。


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投稿日:2001年8月15日
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投稿者 taksoho : 05:16 | コメント (0)

千葉消防徒然話 その8

南署本署放水員置き去り事件(アハハと笑える話です。)
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>masa様

千葉市 TAK

FDNYの隊員の皆さん大変な事態で言葉もありません。
衝撃映像でなんとも重苦しい雰囲気を禁じ得ませんこの頃ですが、ここでちょっと気分を変えてアハハと笑えるお話を一つ。


毎度古い話ですが、昭和50年の初秋のことと記憶しています。
南消防署本署(現:宮崎出張所)での朝8:30の大交代時の出来事です。

爽やかな良い天気の朝で、署の建物の前にはずらりと新たに当番に就く中隊の皆さんや日勤の皆さんが整列して南署署長さんの観閲を受けながら当番署隊中隊長さん(現在の大隊長)の伝達報告を聞いていました。
本署の大交代は職員数も多いだけになかなか壮観です。

(筆者注:正確に書くと、庁舎建物2階で行われる大交代・引継ぎ・申し渡しの後に行われる甲または乙の警防関係当番中隊の1F車庫前での整列のこと)

宿直明けの中隊の皆さんはぼつぼつ帰り仕度を始めていました。
突然ピ−ポ、ピ−ポ、ピ−ポと署のスピーカーが建物火災第2出場指令を告げました。
南町か今井町あたりの火災だったでしょうか。
指令を聞き終わるやいなや整列はどっと崩れて隊員さんたちは一斉に消防車両へ駆け出しました。
ポンプ1分隊の普通化学車(CP)とポンプ2分隊が小型ポンプ車、(他に2分隊の乗換えで高発泡車が配置されていました。)
がいつものように出動準備を整えました。
救急隊はその時には救急事案出動で不在でした。
ところがその肝心な時にポンプ2分隊の小型ポンプ車のエンジンが掛かりません。
実はこの昭和43年製の2代目トヨタランドクルーザーの小型ポンプ車(FJ55V改)はディストリビューターの不具合かバッテリーの不調かで前にも数回出場時に掛りが悪くて機関員さんが必死にセルをまわしてかけたりしていました。
しかし今回はうんともすんとも掛りません。
中隊長さんと1分隊はしびれを切らして先に出てしまいました。
さあ、困りました。
そこで2分隊長さんと放水員1さんは下車してポンプ車を押し掛けしようと前へ押し始めました。(2分隊は3名乗車でした。)
脇で見ていた勤務を終えて非番になった隊員さんたちや日勤者さんたちもすかさず手伝いに入って大勢で車両を勢いよく押して前のバス道路まで出したところでようやくエンジンがブルルンと始動を始めました。
そしてそのハプニングは起こりました。

下車してポンプ車を押していた2分隊長さんはほっとして車を出させました。
ところがもう一人乗車するはずの放水員1さんは車両の後ろに回って押していたものですから車両に乗り終えないうちに2分隊長さんも機関員さんもほっとしたことと時間ロスのあせりで後ろの隊員席を振り返るゆとりがなかったんでしょうね。
小型ポンプ車は赤色灯とサイレンを鳴らして無情にも走っていってしまいます。
残された放水員1さんも声を出して必死にバス道路を駈けて追いかけましたがなんせ重い防火衣、防火帽、半長靴姿ですからバス道路上に置いていかれて、自分が乗るはずのポンプ車が遠ざかっていくのを見送りながら立ちつくしています。
さあ、非番員さんたちや日勤者さんたちはこの光景を見て腹を抱えて笑い転げています。
放水員1さんが大真面目な上下重装備のままで情けない様子で立ちつくしているだけに余計可笑さがこみ上げてきて笑いが止まりません。
不謹慎ながら私もちょっと遠くで見ていて大笑いしていました。
多分その時、署長さんも笑っていたと思います。

放水員1さんはしばし路上で呆然としていましたが、正気に返って自分の通勤用の乗用車を引っ張り出して脱いだ防火衣と防火帽を放り込むと後を追っていきました。

結果として、2分隊長さんが先に置き去りに気がついたのか、指令室よりの無線で置き去りを教えられたのかどちらが先かはいまいち定かではありません。


以上徒然のままに。


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投稿日:2001年9月22日
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投稿者 taksoho : 05:17 | コメント (0)

千葉消防徒然話 その9

私も「THE 消防車」にちょっと
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>masa様

千葉市 TAK


こんにちは。
私もさっそく「THE 消防車」を手に入れてみました。
なかなかの編集の出来で画期的な情報が随所に散りばめられています。


その1
美浜署本署の新車の美浜梯子2にはなぜポンプと吸管がぎ装されているのか、不思議に思っていましたが
(ここのところずーっと新規購入の千葉消防の梯子車にはポンプのぎ装は無しでした。)
高所放水車仕様のシュノーケル車を更新した車両なので美浜梯子2の新車両も高所放水車機能を兼ね持たせているのですね。
確かにバスケット下のノズルが放水も発泡放射もできる高所放水車仕様の固定のモニターノズルになっていますね。
(名前もバリアブルノズルと付けられていますね。)
だもんで、ポンプも付いたというわけなのですか。(納得!!)


その2
同じく美浜署本署の新車の美浜泡原液搬送車は日本機械が千葉消防には珍しくぎ装を受注したのですね。
私は千葉消防(森田)と船橋消防(日機)との梯子高日本一争奪戦の話し以外にも「日本機械」と聞くと
反射的にぞーっと総毛だってしまいます。
(理由はそのうちにまた稿を改めて書きます。)


その3
水中ロボットは緑Rになぜか配備されたと思っていたらいつの間にか臨港に配置換えされていたのですね。
(当然といえば当然の話しですが。)
水中ロボットのメカの解説も面白く書かれていますね。


その4
堺市高石市消防組合消防本部高石消防署高師浜出張所にあった耐爆装甲化学車は東消の8本ハイパーのCCにちょっと似たタイプの車両に更新されていたんですね。
千葉消防の場合は耐爆装甲化学車はノーマルな大型化学車に更新されてしまいましたが堺高石消防はあくまでも耐爆仕様にこだわったんですね。
とてもありがたい情報です。


BUT!!
ごくわずかですが誤記がありました。
P16のミニ消防ポンプのデーター表に水タンク容量1800リットルとありますがたぶんこれは誤記でしょう。
船橋消防のミニポンプ車に水タンクを積んでいるらしいのですが走行時に尻をふられて足回りよたよただとの話しも聞かれますから。

それから、これは出版社の側の問題ではないのですが、市川消防の水難救助車(水陸両用車)は日本初というのは真っ赤な嘘です。
かつて横浜消防で水陸両用車が実際に運用されていました。
陸上はタイヤで、水上はジェット推進5ノットで航走できました。
陸上走行用と水上航走用の丸いハンドルホイールが2つ左右についているというとても愉快な船の形をした愛嬌たっぷりの車両でした。
1989年前後に退役しました。


masa様へ追伸

高圧空気充填車/呼吸器充填車が千葉消防の開発車両であることは先日の千葉消防徒然話 その7 の2項目目に書き込んでありますのでよろしければご参照下さい。(笑)


以上徒然のままに。


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投稿日:2001年10月3日
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投稿者 taksoho : 05:19 | コメント (0)

千葉消防徒然話 その10

梯子付消防車という車両の持つ重要性について
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>masa様

千葉市 TAK

こんにちは。
今回は「梯子付消防車」という車両の持つ重要性について徒然のままに記してみたいと思います。

先日四街道市への梯子車応援出動準備体制が千葉消防内でなされていたとの書き込みがありましたが、中高層建物火災消防戦闘において梯子車の装備がないとしたらこれほど惨めなものはありません。
でも、実際に梯子車無しの最悪の事態が生じたことがあります。

日時をはっきり覚えていないのですが昭和48から50年あたりではなかったかと思いますが、
千葉県館山市の繁華街に位置する伊藤屋デパートに火災が発生したのですが館山消防には梯子車の装備が1台もなく最も近い梯子車所有の君津消防や木更津消防との消防相互応援協定もなされていなかったようでなすすべなく建物が全焼してしまうというショッキングな出来事がありました。
幸い死者はでなかったように記憶しておりますがまったく歯がゆい思いで県の消防課あたりで法的根拠がないにしても前述の君津消防や木更津消防をはじめ、市原消防や千葉消防に緊急避難的に梯子車応援出場命令(あるいは要請)が出せないものかなあと思ったりしました。
(阪神大震災時に生じた問題と同じで当事者自治体よりの要請が届かないと動くことができないという
なかなか難しい問題のですが・・・)

では、中高層建物を管内に持つ消防では果たして最低何台梯子車を装備しておけばよいのかの問題ですが千葉での田畑百貨店火災の前年の昭和45年に栃木県県都の宇都宮市の福田屋デパートで火災が発生し地下B1から出火して地上8階まで全焼したことがありました。
このとき宇都宮市消防本部は18mの梯子車を1台だけ所有していました。
この18m梯子車は千葉消防が始めて導入した(そして千葉県初)いすヾTX641改と同型でした。
(わざわざ宇都宮まで出向いて千葉と同じTX641改であることを確認したことがあります。)
千葉消防は昭和43年の奈良屋デパート火災時には18mと32mの2台で戦いましたし、特別救助隊もすでにありました。
昭和46年の田畑デパート火災時には15mのシュノーケル車が新たに加わっていましたし、市原消防より32m梯子1台の応援を得られました。
(その他、習志野消防からは救助工作車、八千代消防からは水槽付ポンプ車1台の応援をいただきました。)
それでも田畑火災では千葉消防はマスコミや東消庁はじめ他の消防機関から戦術を叩かれました。
装備の不足は市民の生命財産のみならず救助・消火作業にあたる隊員の生命の安全にも関わってくるわけで宇都宮福田屋火災では18m1台では火点上層階に橋頭堡を築くことなど不可能だったでしょう。
はっきり処置なしでした。
また、大量の犠牲者を出した熊本市の大洋デパート火災は昭和48年に発生しています。
昭和45年から48年にかけてはデパート火災が毎年のように発生していました。
これが高度成長化を遂げつつあった経済大国日本の中小都市における消防力の当時の実態でした。
消防機関トップの東消庁と中小都市とではあまりに装備の格差がありました。

当時、船橋消防もまた問題を抱えていました。
持っていた梯子車は24mという中途半端な高さのもの1台きり。
ある日あるお騒がせ男が鉄塔か煙突(確か煙突だったと思います。)
に登ってしまって騒いでいるので県警の要請で船橋消防のその24m梯子が特命出場したのですがなんと伸ばした梯子がはるか下までしか届かず、翌日の新聞千葉版には「高層火災に不安を感じる船橋市民」と書かれてしまいました。
その後、船橋消防には日本損害保険協会より15mシュノーケル車の寄贈がありましたが、
(千葉消防にかつて日本損害保険協会より寄贈されたものとまったく同じ日野TE120改。)
不安は現実化して数年後、国鉄(現JR)船橋駅北口の東武百貨店がら出火しました。大事には至らなかったのが嘘のような幸運さでした。
ところで前回の千葉消防徒然話9に「日本機械」と聞くと反射的にぞーっと総毛だってしまうと書きましたが、その理由というのは以前、日本機械さんがぎ装した梯子車(たしか30mクラスだったように思いますが)が某地方消防機関で庁舎前で延伸点検中に途中からポッキリ鋼製梯子が折損してしまったことがありました。
隊員が誰も乗っていなかったのが本当に幸運でした。
また、救助や消火活動中でなかったのも不幸中の幸いでした。
このあり得ないアクシデントを受けて自治省消防庁(現、総務省消防庁)は真っ青になって言葉を失なってしまいました。
もちろん全国消防機関にはその後厳重な点検を指示し、メーカーさんももちろん事後安全策を構じたことはもちろんでその後そのようなアクシデントは起こっていません。
梯子車の梯体折損事故としては昭和7年の白木屋火災で木製梯子が火災救助活動中折損して以来でした。
メーカーさんから営業妨害発言と目くじらをたてられてはかなわないのでこのBBSのみでこっそりひっそり書きますが。
(でも、事実なのですが・・・)
先日書いた日本一の高さの船橋消防の日本機械製の48.05m梯子の梯子先端にのっかる放水員さんはそれを知っていたら決していい気持ちはしなかった(まだ現役ですので、「しない」かも。)ことでしょう。(笑)

それはともかく、1つの中高層建物火災で火点に直近部署して架梯できるのはホテルニュージャパンや大阪千日前火災の例を見てもせいぜい10台程度が限度かと思われます。
その点から1消防機関において梯子車保有台数10台というのは一つの目標目安になるのかもしれません。
現在の千葉消防は梯子車9台、シュノーケル車1台、高所放水車1台と消防ヘリ2機ですので先日の
富士見町・栄町連続中高層建物火災発生にも対処できるだけの体制がようやく整ってきたようで喜ばしく思います。
もちろん、総務省(旧 自治省)の示している消防基準はもっと多くの台数を求めているのですが、実情でいうと梯子車というのは格納に実に大きなスペースを要します。
結構、梯体を載せている分、車高が高くなるので車庫もそれなりの高さを必要としますし車長が長い車両もあるので奥行きも必要です。
中には車庫の床を掘り下げて梯子車を収容しているところもあるようです。
千葉消防でも中央署本署に新規先端屈折型梯子車を配置するためにそれまで置いていた警防課の防災支援車を稲毛署本署に動かしました。
このように施設面で結構な負担が生じます。
運用人員面でも専任運用するのは厳しく、乗り換えが多くなっています。
また他の特殊車両との配置バランスも考慮する必要が当然あります。
例えば、幕張新都心などの超高層建物に対しては消防ヘリの方が運用の幅が広くとれると考えられます。
当然、ヘリと梯子車との立体的垂直連携戦術作戦をとる必要性が出てくるわけで、梯子車の数だけを増やせば良いといったものではないようです。
各地方自治体の財政が悪化している昨今ですが一応、例を挙げれば習志野・八千代・佐倉といった人口20万前後の都市レベルで修理・定期検査への対処も考えて5台程度の梯子車を備え、隣接消防組織から追加5台程度の梯子車と消防ヘリの応援出場を得られる体制をとっておいて年数回程度の合同訓練の実施といったところが現実的対処ではないでしょうか。

梯子の地上高については、前に書きましたように50mに到達した時点で高さ競争は一応の終息を見たと思われます。


以上徒然のままに。


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投稿日:2001年10月17日
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投稿者 taksoho : 05:20 | コメント (0)

千葉消防徒然話 その11

最新装備が活躍!!昭和50年京成ストアー第4次火災
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>masa様

千葉市 TAK

昭和50年1月20日深夜に発生した千葉市京成ストアー火災は千葉消防にとって現在のところ、最も最近の建物火災第4次出場となっています。
この火災では苦労させられた田畑百貨店火災の教訓として整備された近代消防の花形の車両、救助照明車、高発泡車、耐爆装甲化学車といった各種最新装備・機材がようやく出揃った時点で発生した画期的な大規模火災戦闘でした。
(高圧空気充填車はぎ装製作中でこの火災のすぐ後、3月に配備されました。)
このうち、救助照明車、高発泡車がこの火災で実戦投入されました。
特に、実戦で高発泡を注入したことはきわめて戦術上、画期的なことでした。

昭和50年度の出初式も終えて間もない1月20日の深夜1時52分。
突然、「本千葉町1番地15の1号、京成ストアー建物火災第2次出動」の指令アナウンスが千葉市内の
全消防署所に響きわたりました。
さっそく、南消防署本署庁舎(現、宮崎出張所)でもポンプ1分隊の普通化学車(CP)とポンプ2分隊の小型ポンプ車がいつものようにシャッターをはね上げて出動していきました。
この2台の他に南署本署には高発泡車が2分隊の乗換えで配置されていましたが、この時点では高発泡車には特命出場指定はされずポンプ2分隊の小型ポンプ車が出て行きました。
その時点では「京成ストアー?本千葉町?あそこに京成のスーパーマーケットなんかあったっけ?
平野屋じゃなくて?」
というのがその時の実感で、京成千葉駅(現、京成千葉中央駅)に隣接した国鉄千葉駅方向に向かって高架線の下を伸びた映画館やら、飲食店街やらが並んだ京成アミューズメント地域だと気がついたのはもう少し後のことでした。
南署中隊の1.2分隊が出動して行ってから10分か15分くらい経ったでしょうか。
「本千葉町1番地の火災は第3次出動に切り替え」の指令アナウンスが告げられました。
宿直の残留本署スタッフが高所からの状況確認のためにタンタンタンと望楼の階段を駆け上って行く音が聞こえます。
その後の消防情報アナウンスでも延焼中の状況を告げています。
「花見川1・2分隊、特命出動」(現、作新台1・2小隊)が告げられました。
いよいよ燃え盛っているようです。
数分間あったかなかったかくらいの後に、とうとう「北署2分隊、幕張2分隊、大宮2分隊、誉田2分隊、特命出動」の指令が出ました。
えっ!実質4出じゃないか!と思っていると、程なく「本千葉町1番地の火災は第4次出動に切り替え。なお、非番員招集。」
のアナウンスが流れてとうとう第4次出場の追認となりました。
さあ、動きが慌しくなってきました。
署長用の無線車(現在の署長用指揮車)が赤色灯とサイレンを鳴らして署長官舎公邸へ南署長を迎えるために出て行きました。
三々伍々、招集を受けた非番の署員さんたちが通勤用の車で駆けつけて来てきては防火服・防火帽を車に積むと火災現場へと向かって行きます。
そして非番2分隊のスタッフ3名が揃いました。
高発泡車のエンジンが掛けられました。
まことに優雅な姿のいすゞTXDロングノーズボンネットの型の車両が車庫を出て緊急走行していきます。
非常に背丈の高い車両なのでカーブを切って車庫から前のバス道路に出てゆく時には一瞬、ハッとするくらい、車体が大きく傾きます。

TXDボンネット型高発泡車は昭和48年3月に南署本署に新規配属されました。
低床シャーシーのダブルキャブで窓もドアもないいわゆる飛び乗り型のシートでした。
後部ボディーは非常に大きな箱型で、ちょっと見ると救助工作車と見間違うようなスタイルでした。
ボディー後面にはホースカーと同様な積載方法で可搬型エンジン動力式高発泡機が積まれていました。
その奥は観音開きのドアになっていて可搬型高発泡機を降ろしてからその扉を開いて本体車体積載高発泡機につながった太い直径の発泡チューブを引っ張り出す構造になっていました。
ボディーの側面には救助工作車と同じように扉が付けれられていて予備の発泡チューブや分岐チューブが入れられていました。
さらにはボディーの収納スペースに収まりきれない予備発泡チューブが後部隊員席の右側にも積まれていました。
時期的に見て、いすゞTXDボンネットの型の車両としてはかなり最終生産に近い車両になると思われます。
その後昭和48年6月に一時期、真砂の局本部の警防課特救隊に取り上げられてしまいましたが幸いなことに翌年4月に再度南署本署に再び戻ってきました。
そして今回京成ストアー火災に出向くことになりました。

火災現場では最先着部隊は今回も田畑デパート火災の時と同様に固く閉ざされたシャッターに火点への進入を阻まれました。
エンジンカッターでシャッターを切断しながら、映画館などのあるビル部分からも進入を試みました。
火元の北側平屋部分に進入できないので先に4階建てビル部分にレスキュー部隊が進入検索を開始しました。
外側ではニューフェースの救助照明車がアームを高く伸ばして晧々と現場正面を照明しているので現場は非常に明るくなっています。
これはこれまでの現場とは違った千葉消防の新しいシーンです。
昭和49年12月に新規購入された救助照明車は昭和50年1月9日までは真砂の局本部の警防課で運用されていましたが1月10日に中央署水上出張所が臨港消防署に昇格して開署したので西千葉出張所に駐屯していた西千葉特別救助隊(梯子特別救助隊)が臨港署に移動して、その後の空いた西千葉の車庫スペースに真砂から救助照明車が移動してきて専任隊員が配属されてフル運用を始めました。
車体は初代いすゞフォワードのSBR380改でした。
隊員席はシングルキャブで、でっかい直径のハロゲンライトを伸長アーム部に12基、ボディー上に垂直延伸式を2基積んでいました。

北側平屋建て建物のシャッター2箇所が切断され防御部隊が進入を開始しましたが内部に熱気と濃煙が立ち込めているので消火活動に危険がともないます。
そこで現場最高指揮官は高発泡の注入を決心しました。
正面シャッターに近づけて高発泡車が近寄っていきます。
ホースカー型の可搬式高発泡機が後部から降ろされます。
そしてその奥の扉を開いて本体車体積載高発泡機につながった発泡チューブが伸ばされてゆきます。
高発泡注入作業は通例、2個所以上の開口部から注入されます。
分岐チューブを使う場合もありますが、今回は可搬式高発泡機と本体車体積載高発泡機の2台で別々の開口部に注入されました。
高発泡注入中はできた泡が消えてしまうので棒状、噴霧注水とも放水は取り止められます。
この高発泡注入戦術が功を奏して建物の延焼は阻止されました。
千葉消防にとってまったくエポックメーキングな新戦術の適用された瞬間でした。
最終的に完全鎮火は午前4時30分でした。
焼失面積は結局794.4平方メートルで阻止しました。
(6店舗焼損)
最初はシャッターの切断で手間取りましたが最終的に消防戦闘成績としてはなかなか良好だったと思われます。

火元はベルエポックというコーヒーショップでした。
京成アミューズメント地域の閉店時に隠れて忍び込んでいた泥棒が店舗に火をつけて騒ぎを起こしてその隙に逃げようとしたのですが、逃げることはできず、結局焼死してしまいました。

記録では出場部隊は

ポンプ車19台。
(水槽付ポンプ車と小型ポンプ車をあわせて。)
普通化学車3台。
(ポンプ車として活動。臨港署本署に居た耐爆装甲化学車は
今回は出場しませんでした。)
梯子車3台。(うち、2台は梯子救助車。北署本署LSは残留。)
救助工作車1台。(真砂の局本部の警防課特救隊。)
高発泡車1台。
救助照明車1台。
救急車1台。
救援車(給食車)1台。
無線車(現在の指揮車)4台。
火災原因調査車1台。
出場人員、消防職員262名、団員13名

と記されています。

以上徒然のままに。


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投稿日:2001年12月25日
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投稿者 taksoho : 05:21 | コメント (0)

千葉消防徒然話 その12

千葉消防、過去最大の謎 真砂本部庁舎建設
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>masa様

千葉市 TAK

こんにちは。
久々に消防徒然話書き込みいたします。

長洲一丁目に現千葉消防新合同庁舎が完成してから早いものでもうすでにまる3年経ちました。
ロケーションとして千葉市全体を365度に万遍なく見渡せてほぼ理想の地理条件です。
でも、実は前本部庁舎は実際に建築された真砂一丁目ではなくて千葉港の千葉市役所を間近に見た位置に建築される予定でした。
実際、用地も確保されていて予算がとれ次第、建築開始を待つだけになっていました。
中央署水上出張所もこの建物に同居とのことでした。
上部団体の市役所も市議会もすぐ目の前の連絡の良さで、長洲一丁目の現千葉消防新合同庁舎と良い勝負の良好地理条件でした。
それがなぜ、実際は真砂一丁目に建ってしまったのか千葉消防最大の謎のトップに位置するミステリーです。
(昔、別の消防BBSで「東消庁20世紀最大の謎」と題して書き込みをシリーズでしたことがありますが、
これはいわば千葉消防版特別篇です。)

この話を書くと現職の方で機嫌を悪くなさる方がいらっしゃるかもしれませんが、もう新消防合同庁舎もすでに建ってしまっていますのですでに過去の時効の来た話としてご容赦下さい。(笑)

ある奇妙な新聞記事が千葉日報誌に載ったのは田畑百貨店火災の少し後、昭和46年の秋くらいかと記憶しております。
その記事によりますと中央4丁目の千葉市消防局本部庁舎・中央消防署本署合同庁舎が手狭になったので局本部庁舎を中央消防署本署庁舎と分離して千葉港の千葉市役所近くに新しく建築する計画を進めていたのが、最終的に真砂一丁目に建築替えするとの記事でした。
(私も新局庁舎は千葉港とばかり思っていたので正直びっくりしたのを今でも覚えています。)
発端はある日、局本部の総務課施設係の担当の方の一人がある話を聞き込んできたところから始まっています。
その係員の方の話とは、建築予定の千葉市役所近くの敷地に新本部庁舎を建てると既に建設確定済みの電電公社の建物の電波発信鉄塔が障害になって消防庁舎に無線通信受発信用通信塔が(電波法の?)規制を受けて立てられないとの話でした。
それを聞いた総務課と局幹部さんが通信アンテナが立てられないのでは消防本部として機能しないと考えて、慌てて本部庁舎を千葉港からすでに真砂出張所建築予定地として確保済みの真砂一丁目の敷地に建築位置を変更するとの決定を下してしまいました。
(記事に書いてはありませんでしたが、たぶん市議会筋にすでに報告してしまっていたのでしょう。)
実際、現在、JR京葉線ちばみなと駅前の内陸側にNTT東日本とNTTドコモの白と朱色に塗られた通信鉄塔が2本立っています。
そのうちのより内陸側のNTT東日本の鉄塔がその障害となるアンテナだったのでしょう。
ところが決定が下されたその後で、消防用通信鉄塔を立てるにあたって規制や障害等は実際には存在しないということが判明してしまったからたまりません。(!?)
・・・・・・
結局、施設係の担当さんの「こうなったら本部庁舎は真砂に建てる。」の談話でこの記事は終わっています。

私はもちろん論評する立場には昔も今もありませんが、真砂一丁目のロケーションはあまりにも中心部から西に偏りすぎているのは言うまでもありません。
(もっとも横浜消防のように市役所・議会や中心部から遠く離れた保土ヶ谷区に局本部を建築した実例はすでにありましたが。)
警防課の特別救助隊もその時点で西千葉出張所に駐屯していたのが本部庁舎竣工とともに本部に同居の予定でしたから当時1台しかなかった救助工作車のカバーが大きく市西部に偏ることとなりました。
この状態は昭和52年11月に2台目の救助工作車が購入されて都賀の中央救助隊に玉突きでトヨタFC100Cの救助工作車が移動するまで続きました。

結局、新本部庁舎は昭和48年7月に竣工しました。
その当時はまだ隣の東京歯科大の建物も建っておらず、文字通りだだっ広い埋立地の中にぽつんと局本部の建物と通信塔がそびえ立っておりました。強風の日には埋立地に濛々と舞う砂埃がとても目にしみました。

当初、局本部庁舎が建つ筈だった市役所近くの敷地は今でもグリーンのネットフェンスに囲まれた芝の空き地のままです。
(たぶん、県企業庁の所有地なのでしょう。)
市役所と斜向かいの道路を隔てただけの一等地なのになぜ空き地のままなのかは詳細不明です。


以上徒然のままに。


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投稿日:2002年4月5日
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投稿者 taksoho : 05:23 | コメント (0)

千葉消防徒然話 その13

勇敢なる銀行の支店の話
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>masa様

千葉市 TAK


こんにちは。突然ですが、クイズです。

日本史の歴史上最も勇敢な銀行の支店って
どこだかご存知でしょうか?

正解は住友銀行千葉支店です。(現、三井住友銀行千葉支店)

なぜかというと背中あわせのデパートが火災で燃え盛っているのになんと勇敢にも銀行の営業を継続し続けたという凄いお話です。

昭和46年5月に中央二丁目の田畑百貨店(現、千葉パルコ)が火災で延々燃え続けた後、ほぼ全焼してしまったのは皆様ご承知のとおりです。
(午前1時22分出火で、鎮火が午後5時35分でした。)
ところが、その田畑百貨店と背中あわせというかそのブロックの大通りに面した角に位置していた住友銀行千葉支店は朝9時の開店から午後3時の閉店まで店の入口に「営業中」と書いた紙を貼って業務を続けておりました。
私自身は残念ながら学校の授業があったので、現場到着が午後3時を過ぎており、その「営業中」の
張り紙なるものの実物を見ることはできなかったのですが。

一般常識的に考えて、一時、野次馬にも退避命令が出たほどの猛煙の中で、いつ、延焼してくるともわからない状態で営業を継続するなどはっきりいって気違い沙汰なのですが当時の銀行法なる法律の定めで、取引先の保護のため、営業時間中は銀行は店を閉じてはいけなかったそうなのです。
(今でも、法律がそうなのかは定かではありませんが。)
従って、女子行員さんを除いた支店幹部以下、男子行員の必要最少人数の方々が頑張って居座っていたそうです。
(もちろん、いつでも退避できるように準備しながら。)
当たり前の話ですが、店の前は無数の送水ホースが絡みながらのたくりまわっていて消防隊員が血走った眼をして走り回り、千葉県警の機動隊が現場立ち入り規制の非常線を張っている中で、果たしてその日来行した顧客が一人でもいたのかどうかは不明です。(笑)

きっと支店の建物の中の田畑側に面していた壁は触ると熱かったことでしょう。
千葉消防の現場指揮本部でもさぞや行員さんたちの安全を心配し続けていたでしょう。

昨今、不良債権やら税金注入やらシステムダウンやら評判の悪い大手都市銀行さんですが当時の勇敢なる銀行員の皆様に、ここに敬意を称するものです。


以上徒然のままに。


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投稿日:2002年5月28日
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投稿者 taksoho : 05:24 | コメント (0)

千葉消防徒然話 その14

昭和47年 蘇我小学校火災と消防団分団支部員による局消防車路上阻止ハプニング!?
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>masa様

千葉市 TAK

昭和47年12月30日の午後の2時を過ぎたくらいの頃だったでしょうか。
突然、「今井町3丁目15番地32号、(現、中央区)蘇我小学校、建物火災第2次出動」の指令アナウンスが千葉市内の全消防署所に響きわたりました。
白昼の学校火災とは重大事で、当然のことながら人命多数危険が想定されます。
ですが、幸いなことにこの日は暮れも押し詰まった年末で学校は冬休み。建物内に人は殆どいませんでした。

南消防署本署庁舎(現、宮崎出張所)ではポンプ1分隊の普通化学車(CP)とポンプ2分隊の小型ポンプ車、救急隊の3台があわただしく出動していきました。
程なく第3次出動指令が追加指令されました。
南署本署前を大宮ポンプ1分隊の水槽付ポンプ車と大宮ポンプ2分隊の小型ポンプ車が間を置いて前後してけたたましくスピードをあげて通過していきました。
(大宮出張所は当時は南消防署に所属していました。)
続々と防御部隊や救助隊が現場に集結していきます。
聞こえてくるサイレンの様子から桜木小隊も出てきているようで、さて、南署本署への残留警備の部隊は
今回はどこが来るのだろうか?
誉田1分隊かな、などと考えているとなんと驚くべきことが起こりました。
トヨタのライトエースという車種だったでしょうか。
当時のポピュラーだった作業用トラックの露天の荷台に可搬式B2級ポンプを載せて消防団の分団支部の1部隊がすべりこんできました。
(第何分団の何支部かは不明)
赤色灯の代わりに赤い旗布を木製の旗棒に括り付けて運転席の屋根の上に高く掲げて緊急車両を示していて、サイレンはアームがついた手回し式のものを同じく屋根の上に据え付けていました。
団員さんたちは紺の消防団員服ではなく私服の作業着(なっぱ服?)で頭にねじった手ぬぐいを鉢巻状に巻いていましたから鳶職さん、あるいは農業従事の団員さんたちだったのではないかと思われます。
思わぬ珍しい部隊の出現にいささか度肝を抜かれてしばらくあっけにとられておりました。
この部隊が南署本署残留警備部隊としてそのまま部署して後ほどハプニングを引き起こします。

さて、火災現場の方では最先着の蘇我1・2分隊を始め、南署1・2分隊や生浜1分隊などの所轄署隊が手際良く火点直近に部署して、あるいは中継送水体制を整え、後着部隊も小学校の敷地をぐるっと包囲する体制を整え大事に至らず火災は延焼を阻止されていきました。
蘇我小学校は2階建てでしたので梯子車部隊の出場はありませんでした。

出場部隊は下記のとおりでした。


蘇我1(CP)、同2(PT)
南署1(CP)、同2(PM)、同救急隊
生浜1(PT)
中央署1(PT)、同2(PM)、同無線車
局本部 警防課無線車(指揮統制車)、火災原因調査車 
大宮1(PT)、同2(PM)
水上1(PT)
桜木1(PT)、同2(PM)
西千葉1(PT)、警防課特別救助隊救助工作車(R)
穴川1(PT)、同2(PM)
消防団3分団(PM)
川鉄自衛消防隊(PT)


早い段階で延焼は阻止され、鎮火のための残火処理がなされ約1時間後には火災原因調査に従事する部隊を除いて各隊それぞれホースを巻いて、順次現場を離れて帰署していきました。

その頃、南署本署の前では火災鎮火の消防情報アナウンスを聞いた残留警備にあたっている消防団員さんたちが苛立って本署建物の前をうろうろ行ったり来たりしていました。
それはそうで暮れの忙しい12月30日、団員さんたちはそれぞれ家業を中断して駆けつけてきたわけで、鎮火の報が入ったのだから後は常備消防部隊に任せて一刻も早く任務から解放されたいのはごく自然なあたり前の話です。
最初に南署本署の前を通って帰署していく桜木1・2分隊の車両が通っていきました。
団員さんたちは自分たちに替わってくれるのかと期待していたら無情にもそのまま通り過ぎて行ってしまったのでむっとして次に通る部隊を待ちました。
すると程なく大宮小隊が白旗方面から走ってくるのが見えます。
数人がかりで南署本署の前のバス通りに立って大手を広げて立ちはだかり、大宮1分隊の水槽付ポンプ車と2分隊の小型ポンプ車をストップさせてしまいました。
バス道路の真ん中で車両を止められて大宮小隊長さんはびっくりした様子でしたが後ろにも一般車両がつながっているので仕方なく南署本署の車庫前の敷地へと左折進入しました。
2分隊の車両も続きます。
車両を止めた団員さんたちと大宮小隊長との話し合いがその場で始まり、1分隊の水槽付ポンプ車は一旦車庫に入れられ、2分隊はそのまま大宮出張所へと帰っていきました。
南署本署の残留署員さんも1人建物の2階の事務所から降りてきて話に加わりながらしきりに団員さんたちをなだめていました。
団員さんたちと大宮小隊長との話は容易につかず、指令センターの判断を仰ぐためでしょうか、署の建物の2階の事務室へと一緒に上がっていきました。
他の1分隊の隊員さんたちも2階に上がっていったのでそのまま大宮1分隊が残留警備を引き継ぐのかなと思っていたら、しばらくして2階から大宮小隊長と隊員さんたちが降りてきて、大宮1分隊の車両は南署本署を後に帰署してしまいました。
結果として消防団分団支部部隊は残留警備配備の継続を強いられ、結局、南署2分隊がようやく帰署した夕刻まで足止めされて盛大にぶうたれながら帰っていきました。

普通なら誉田1分隊あたりが残留警備に入るのに、この日は年末の火災多発時期のため警戒態勢を高めたためだったのでしょうか。
その後は二度と消防団分団のポンプ、あるいはこのハプニングに係ったような可搬式ポンプを積んだ臨時ポンプ隊が南署本署の残留警備に入ることはありませんでした。
結局、極めて例外的な出来事だったのでしょうか?
局と団とはなかなかむずかしい関係がありますね。

それにしても団員の皆さん、本当にご苦労さまでした。


以上徒然のままに。

投稿者 taksoho : 05:24 | コメント (0)

千葉消防徒然話 その15

長年、千葉消防のリーダーとして活躍した中央署1分隊のバリバリ速消車
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>masa様
>皆様

謹んで新年のお慶びを申しあげます。


千葉市 TAK

久しぶりの千葉消防徒然話の書き込みです。

各消防関係のBBS・掲示板でしばしば質問に登場するのが「速消車」という、現在ではほぼ、死語になった名称です。
ごく大雑把にいえば1立方メートル以上の水タンクが付いた火災現場の水利に頼ることなく火点直近に部署して積載水での初期消火活動ができる水槽付ポンプ車を指すのが「速消車」の認識として一般的なのですが、さらに厳密に言えば、固定式(取り外しが可能なものも。)の棒状放水用チップの付いた放水銃が装備されているのが本当の意味の正統派の「速消車」ということになります。

その意味では千葉消防には全ポンプ車のリーダー的存在として中央署本署1分隊にまさにその速消車が長年活躍していました。
(正確に書くと千葉市消防署本署1分隊から千葉市中消防署本署1分隊、そして中央署本署1分隊の順になります。)

当時の雄姿の写真を下記のアドレスにアップロードしておきます。
ご覧になってみてください。


http://www1.plala.or.jp/TAKSOHO/CFD/P11/


このいすゞTX Sr.5ロングノーズボンネット型水槽付ポンプ車(はたしてTXの何番になるのか資料が見つかりませんが・・・)は昭和38年2月に千葉市消防署本署1分隊に新規配属されました。
車両識別番号はA22でした。
(当時、Aは水槽付ポンプ車を示していました。)
この車両は千葉消防で初の隊員の安全乗車を図った低床5mロングシャーシーのダブルデッキの豪華版車両でした。
(もっとも当時の東消庁のポンプ車はすでにすべてメタルハードトップのダブルデッキでしたが。)
屋根は本来露天のオープントップに幌布を張ってある、側方窓もドアもない飛び乗り型のシートでした。
車両最後部の最下部には古いホースカーの形式の箪笥の引き出し状の輅車(らくしゃ)が文字通り引き出し式に装備されていました。
そしてボディー上部には冒頭に書いた進行方向に向いた固定式放水銃が燦然と装備されていました。
(もしかしたら取り外しが可能だったのかもしれませんが。
千葉消防の他の水槽付ポンプ車はすべて可搬式放水銃を積載していました。)
ナンバープレートは「11」という2桁のいかにも覚えやすい千葉消防のリーダーポンプ車にふさわしいナンバーでした。
千葉市消防署本署1分隊(のち中央署本署1分隊)という所属は千葉消防の最も要のポジションで、千葉消防の所有ポンプ車の台数が少なかった時代、
(なんせ、昭和46年5月の田畑デパート火災当時に消防団の所有ポンプを除いての化学車を含めた第一線出場可能全ポンプ車がたったの23台だったのですから。)
この車両は中隊指揮車(現在の大隊長乗車の署隊指揮統制車)も兼ねており、中央署管内全普通2出火災以上と市内の相当大部分の延焼火災時に市の中心部から方位360度、北へ南へ、西へ東へと
走り回っていました。
いわば当時の主要な火災現場には必ずといっていいほど臨場していました。
余談で言えば、現在の指揮統制車にはなくなったのですが当時、中央署本署1分隊および北署本署1分隊の水槽付ポンプ車には緑色の回転灯が搭載されていました。
これが積載されていた「現場指揮本部」の幟旗とともに現場指揮本部の所在を示す目印となっていたようです。
(ただ、南署本署1分隊の車両にはなぜかこの緑色の回転灯はのせていなかったので必ずしも正式な標識ではなかったのではないかと思われます。
他の消防機関でも緑色の回転灯の実例は知りません。)

もっとも「速消車」には当時からいろいろな是非の議論が生じていて、結構、大火の原因を引き起こした原因としてしばしば糾弾の的とされていました。
具体的には、強風・烈風天候時に最先着部隊が積載水に頼って火点近接部署と中継送水体制をとると初動時放水水量が十分でなく、頭上を火の粉が飛んで大規模飛火延焼火災を引き起こす。
強風・烈風時には最先着部隊は火点近接部署を避けて最初から十分な水量を持った消火栓、あるいは貯水槽、河川等に部署すべきでホースも最初から65mmを使用して十分な距離的余裕を持った延焼阻止線を設定して飛び火警戒部隊を配置するべきだとの戦術的批判がなされていました。
千葉市の昭和45年の亀井町火災の時も火災戦闘戦術検討にはこの点が検討事項として書かれています。
ただ、当時の千葉市内の消火栓・貯水槽の水利整備状況の悪さ・未整備状況からすると速消戦術で小火のうちに押さえ込むことができるか、それとも最初から飛火延焼火災に備えた延焼阻止線を張るかは結局はギャンブルなのですから当時の消防力と水利の便の悪さや水利統制を敷いていなかったことを考えると止むを得なかったのではないかと思います。
千葉消防の当時の基本編成であったポンプ1分隊/水槽付ポンプ車、ポンプ2分隊/小型ポンプ車の小隊連携運用方針は現在まで基本的に変わることなく続いています。

この車両は昭和49年12月まで第一線車として縦横に活躍して、その後予備車の期間を経て引退しましたが、多くの火災現場で見たその雄姿は今でもくっきりと心に焼きついています。


以上徒然のままに。


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投稿日:2003年1月4日
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投稿者 taksoho : 05:26 | コメント (0)

千葉消防徒然話 その16

千葉水上消防揺籃とその後(Part1)
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>masa様

千葉市 TAK

久しぶりの千葉消防徒然話の書き込みです。

このたび、2月度補正予算で千葉消防の消防艇が予算承認を受けたということで、めでたく現用消防艇「まつかぜ」が100トンクラスの大型新船舶に更新されるようですね。

当たり前の話しですが、梯子車、化学車、レスキューなどの特殊消防車両同様、水上消防業務に関してももちろん千葉消防は千葉県においての何も無かったゼロからの揺籃パイオニアとしての役割を担ってきました。
話は古く昭和43年から始まります。

昭和43年2月に本部警防課内に直轄の水上出張所が都川河口先の出洲港に開設されました。
(現、中央区)
当時は千葉県のウォーターフロントラインは大規模な埋め立て作業が端緒についたばかりで港の機能はごく小規模なもので、現在中央港にある公共桟橋は当時出洲港にありました。
(余談ですが、千葉県警の現在の水上警察隊の前身、千葉中央警察署水上幹部派出所は当時この出洲港の千葉港港湾管理事務所のとなりにありました。
また、千葉海上保安部もこの港湾管理事務所内にありました。)
今では都川の河口にはJR京葉線の鉄橋が渡っており、付近の様子が電車の中からよく見えますが、
東京湾海側に向かって右側に四角く海の中に突き出た千葉県警の臨時ヘリポートとして現在使われている何もない真っ平らな陸地が見えますが、
まさにそこが千葉水上消防の揺籃の地でした。
出張所庁舎は千葉県の港湾信号所の建物を借用させて貰ったとのことでしたが、これがまあ、当時の隊員さん方には気の毒なくらいのおんぼろ建物で建物の前に小型ポンプ車が露天駐車していなければ
消防機関庁舎とは誰も思わないような代物でした。(笑)
千葉県初の消防艇「はごろも」はこの建物の先の水際に係留されていました。
庁舎建物はボロでも、消防艇「はごろも」は総トン数36.12トン(旧トン)の単胴V型鋼製平水型艇でなかなかスマートな容姿で当時の代表的な東消庁の消防船「みやこどり」などに比べれば船型は小型ではありましたが、「はごろも」は当時どこに出しても恥ずかしくない立派な高性能消防艇でした。

当時は千葉海上保安部も消防専用船舶は持っておらず、本格的消防船舶、中型消防艇「おとわ」(FM−03)が千葉海上保安部に配備されたのは昭和50年年頭になってからでした。
「おとわ」は昭和49年から55年にかけて10隻建造された「ぬのびき」型の100tクラスの中型消防艇の3番艇で「ぬのびき」型は神戸、名古屋、室蘭など全国各地の主要港に配置されていました。

千葉県の消防機関で言えば、船橋消防も市原消防も袖ヶ浦消防も今に至るまで、消防艇の所有はなく、
近年市川消防に小型消防艇「ちどり」が導入されるまで京葉臨海地区の水上消防力は千葉海上保安部の「おとわ」(後に消防巡視艇「あわなみ」が後継)と千葉消防の「はごろも」(およびその後継の「まつかぜ」)の2隻でずっと担い続けていたわけです。
もっとも、いざ大災害発生時には地元のこの2隻に加えて横浜海上保安部より世界トップ水準の本格的消防船「ひりゅう」(FL−01)、運輸省(現、国土交通省)の外郭団体の海上災害防止センターの海保の「ひりゅう」と同型の消防船「きよたき」などがおっとり刀で応援に駆けつけてくることになっていましたので布陣はなかなか強力なラインナップが形成されていました。
(加えて東消庁や横浜消防、川崎消防からも相互応援を得られる筈でした。)
余談ですが昨年の長崎市の三菱重工の建造中客船火災に消火活動にあたっていたのは地元消防艇と一般型巡視船、地元タグボートたちで第七管区の大分保安部の「みのお」(FM−08)やら第六管区の徳山保安部の「なち」(FM−06)やら水島保安部の「すいりゅう」(FL−08)などが応援にでるのかと思ってテレビニュースを見ていましたが結局出ず終いだったようでちょっと奇異に思われました。
長崎港は地理的に少し遠かったからなんでしょうかね。

消防艇は他の消防特殊車両と同様にあまり頻繁に使用されるわけではないのですが、いざ船舶災害発生時に持っていないとまったく手も足も出ないという不可欠性をもっていて、必ずしも費用対効果だけでは計れない部分があるわけです。
昭和43年2月の開設当時は水上出張所には小型ポンプ車はまだ配属されておらず、所員12名2交代の隊員の皆さんは純粋な水上消防業務オンリーでスタートしたのですがさすがにそれでは費用対効果上、もったいないとのことで昭和44年度予算で千葉市中消防署本署に新規購入の中署2分隊用の小型ポンプ車B21(2代目トヨタランドクルーザーのFJ55V改)が配備されたのを機に、元の使用小型ポンプ車B20(初代トヨタランドクルーザーFJ45V改型)が水上出張所に玉突きでまわってきました。
これをもって出洲・神明町付近の陸上警防活動任務も負うことになりました。
そして昭和45年10月に水上出張所は本部警防課直轄から中央署管轄の水上出張所として組織変更がなされました。
(ちなみに千葉市消防本部は昭和45年1月をもって千葉市消防局と昇格名称変更になりました。)
そして昭和46年5月の田畑百貨店火災にも第3次出場部隊として困難な消防防御活動に従事しました。
少々不運だったのは以前書き込んだ消防徒然話その12に書いたように千葉市役所近くの千葉港に新築予定だった局本部庁舎が真砂に建ってしまったので予定では当時のおんぼろ建物を出て、現在の長洲町の消防合同庁舎の中央署本署のポジションのように局本部のお手元近衛部隊として警防課特別救助隊(同じく西千葉から新庁舎に移動予定。)と一緒に華やかに新局本部庁舎に入居できた筈が、(当然、装備も最新鋭機材や新車が優先的にまわされてきます。)そうはならず、詫び住まいのままで水上出張所の隊員さんたちにはまことにお気の毒なことでした。
また、当初の初代トヨタランドクルーザー小型ポンプ車B20も昭和47年6月に水槽付ポンプ車A3に更新されましたがこの車両は幕張1分隊で長年使用していた車両で新車更新にともない水上分隊にまわってきた中古車両であまり恵まれた待遇とは言いにくかった面もありました。

しかしその後、事態は突如一転してきわめてラッキーなことに水上出張所は昭和50年1月に臨港消防署本署として昇格することが決まり、建物があまりに老朽化したためなのか、あるいは千葉県から貸与建物使用期限切れ・返還の要求が出たためか中央港一丁目に臨港消防署本署の庁舎建物が完成するまでの約半年間、水上小隊は中央4丁目の旧中央署本署に仮住まいとあいなり、中央署本署中隊は中央1・2分隊と水上分隊の3分隊編成の暫定変則配置となっていました。
(具体的には一時的に中央1分隊の水槽付ポンプ車と水上分隊の水槽付ポンプ車が小隊連携ペアを組む形で中央2分隊の小型ポンプ車は通常、残留警備や緊急配備にあたることが多かったようです。もちろん半年の間だけの暫定でしたが。)
そしていよいよ待望の新築庁舎が現在の位置の中央港に竣工して昭和50年1月10日に中央署本署から水上小隊が移動して開署しました。

(Part2に続く。)


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投稿日:2003年4月5日
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投稿者 taksoho : 05:27 | コメント (0)

千葉消防徒然話 その16(続き)

千葉水上消防揺籃とその後(Part2)


(Part1から続く。)

昭和50年1月10日に中央港一丁目に新設開署した臨港消防署は最初は配下出張所はなく、本署単独の編成でした。
管轄は市中央部の都川右岸の出洲港より問屋町、中央港1丁目、新港から海岸沿いに高洲4丁目に至るまでのウォーターフロント全部というえらく細長いエリアを受け持つことになりました。
また、市に面した海上部分と河川の水面も管轄に入っていました。
庁舎建物は平屋スレート鉄骨造りの一見、倉庫風の実用性一点張りの建物でした。
配備車両/船舶は水上分隊当時から使用していた水槽付ポンプ車A3(臨港1分隊)と西千葉出張所から西千葉特別救助隊(梯子特別救助隊)の32m梯子車L24(日野レンジャー TC30改)が移動してきて
新たに臨港特別救助隊となり、真砂本部特別救助隊からまわってきた耐爆装甲化学車C19(いすゞSPG650改)の3台と消防艇「はごろも」が当初の配備メンバーでした。
耐爆装甲化学車は皆様よくご存知の多くの幼児向け消防絵本を席巻した超人気特殊車両でした。
このように最初から特殊車センターとしての色合いを濃く持ってスタートを切りましたが、その後も漸次、配備特殊車両が増加していきました。

まず、開署後の昭和50年6月に署長用無線車(現在の署長用指揮車)が配備されました。
セダンタイプの緊急車両で、これで本署らしさが増しました。
同年7月には救急隊も新規配備されました。

昭和53年3月に臨港署管轄初の出張所、高浜出張所が開設されました。
そして同年10月に千葉消防初の化学消防3点セットが高浜に配備されました。

昭和53年4月には北署畑出張所から臨港署本署に高発泡車C59が移動して来ました。
これは畑出張所に成田空港への石油パイプライン対策で新規購入された大型化学車C67(日産CK20L改)が配備されたためで車庫スペースのゆとりと県都心に近いという地理条件で臨港に移動してきたと思われます。
なお高発泡車C59は平成2年1月に新規の高発泡排煙車に更新されています。

昭和54年10月には隣の隣接した敷地に本格的鉄筋コンクリート3階建ての新庁舎が新築され(現庁舎)当初のスレート鉄骨の庁舎建物は予備車庫と倉庫として使われるようになりました。
(昨年この予備車庫と倉庫は新しく建て替えられました。
現在、高発泡排煙車と本部警防課の防災支援車、音楽隊バスの3台が車庫の中に収納されています。)

昭和55年12月には高浜に次ぐ千葉消防2番目の3点セットとして高所放水車仕様のシュノーケル車と泡原液搬送車が配備されました。
臨港署本署はますます特殊車センターとしての性格を深めて行きます。

昭和56年12月に臨港特別救助隊に救助工作車1型(トヨタダイナJ−RU20改)が配備されて32m梯子救助車L24とのペア運用を開始しました。
これで千葉消防は救助工作分隊3コを運用する体制が整いました。
それまで真砂局本部(警防課特救隊)と都賀(中央特救隊)の2個救助工作分隊で千葉市内を分担して活動していたのですが地理的条件からどうしても市中央部から南部にかけてがカバーが手薄になっていたのがこれで解消されることになりました。
なぜ、新規購入の救助工作車が小都市/町消防機関向きの1型だったのかというのはよくわからないのですが、おそらく泡消火剤備蓄タンク施設建設か何かの案件で国から石油施設立地交付金が支給された際の使い残り予算で買える範囲内だったのが1型だったのではないかと思われます。
その後、配備済の救助工作車1型は早々と昭和57年度予算で本格的な救助工作車2型に更新されました。
救助工作車1型はその後は資機材搬送車となって、同時に予備の救助工作車として市内各救助分隊の救助工作車の修理・点検および訓練演習・救助競技会・出初式等の車両出向時にバックアップとして
運用されていました。

昭和57年3月に臨港署管轄2番目の出張所、真砂出張所(現、美浜署本署)が開設されました。
真砂出張所には前に消防徒然話その7で書いた当時日本最長の47.15m梯子車が開設当初から配備されました。

昭和59年2月に新消防艇「まつかぜ」が竣工して「はごろも」が更新されました。
「まつかぜ」は総トン数(新)で35t、旧トン数で59t相当ですからずいぶんと船サイズが増大したことになります。
消火能力も5000型放水砲3基と3000型泡放射砲2基が装備されて一段とパワーアップしました。

「はごろも」の在籍中の特筆すべき出来事としては昭和57年2月の羽田沖日航機不時着事故(かの片桐機長の逆噴射事件です)に「はごろも」が横浜消防・川崎消防の消防船艇とともに応援出動したことです。
結局、沖合警戒待機で救助活動には直接関わらなかったものの各大都市消防との実務的な協力体制の始まりとなりました。

昭和61年12月には昭和41年に新規購入されて以来ずーっと終始一貫、特別救助隊で活躍し続けてきた32m梯子車(L24)が日産UDベースモリタ製スーパージャイロラダー30m(P−AZ30D改)に更新されました。
このスーパージャイロラダーはもちろん千葉県初で、先進的なフォルムと機能にはいささか驚かされました。

平成2年4月1日には千葉市の政令指定都市移行への前準備として真砂出張所は美浜署本署に昇格して高浜出張所も美浜署管轄に移行したので臨港署は再び本署単独の消防署に戻ってしまいました。
臨港の高所放水車仕様のシュノーケル車と泡原液搬送車は美浜署本署に移動してしまいました。
また、中央署本署に配備されていたCD化学車(ドライケミカル化学車:三菱FK115改)はこの時に高浜出張所に移動しました。
このCD化学車も千葉消防の出色の車両として多くの幼児向け消防絵本に登場した車両でした。

さらに平成4年4月1日には千葉市の政令指定都市移行にともない、臨港消防署は本署から中央署管轄の出張所へと降格にあいなってしまいました。
(このとき同時に南署本署も宮崎出張所に降格となっています。)
とは言え、装備・配置人員とも他の出張所とは段違いのいわば分署レベルといえる充実ぶりは変わりませんでした。
それどころか呼吸器充填車までもが美浜特救隊から臨港に移動してきました。

余談ですが臨港で特に目立って多い災害出動項目にトンボ釣りならぬ、カブトムシ釣りがあります。
(飛行機ならぬ自動車なのでカブトムシと例えて)
とにかく中央港岸壁はなぜあのように自動車の海中転落が多いのか不思議ですが、年何件くらい平均で出ているんでしょうかね。

その後も耐爆装甲化学車の引退やら救助工作車3型と牽引トレーラーの更新配備やら警防課の防災支援車まで預かることになってしまったり、皆さんご存知のように各種特殊車両の入れ替わりを繰り返しながら今日にいたっている訳です。

そしてこの度の100tクラスの大型消防艇への更新の決定ということで、出洲港のボロ建物から始まった水上/臨港の履歴は千葉消防のローカル中規模都市消防から洗練された大都市消防への
推移のページそのものを物語っているようにも思われます。


以上徒然のままに。


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投稿日:2003年4月6日
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投稿者 taksoho : 05:28 | コメント (0)

千葉消防徒然話 その17

千葉消防揺籃物語
中高層建物消防:梯子車編
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>masa様

千葉市 TAK


先日千葉水上消防揺籃期の話として書き込みをいたしましたが、消防艇、化学車、救助工作車などの特殊消防車両同様、中高層建物火災に対処する梯子車についても、もちろん千葉県においては最初は何も無かったわけで揺籃パイオニアとしての役割を担ってきました。
話はやはり古く昭和35年から始まります。

昭和35年12月に吾妻町(現、中央区中央4丁目)の千葉市消防署本署(後の中央消防署本署)に新規購入の18m梯子付消防自動車が千葉県で初めてお目見えしました。
ナンバーリングは故意か偶然かナンバープレート「17」と同じ番号のC17(ちば17号)とつけられました。
当時は水槽付ポンプ車がA、小型ポンプ車がB、特殊車両がC、救急車がD、それ以外の無線車等がEとつけれられていました。
もっとも特殊車Cはまだ化学車は存在せず、この新規購入梯子車が千葉消防にとっては(千葉県にとっても)一番最初の特殊車両になります。
3段式機械式18m梯子を装備したいすゞTX641改で(TXシリーズのSr.4)
シートは運転席と指揮官席のみのシングルシートで、屋根は本来露天のオープントップに幌布を張ってある、側方窓もドアもない飛び乗り型のシートでした。
放水員さんは梯子のターンテーブルの左横にパイプ組みの掴まりバーがあって立ったままで雨や風にダイレクトに曝されながら出場していました。
車外乗車走行は消防の華でいかにも勇壮なシーンなのですが安全乗車の見地から見ると本当にハラハラさせられました。
自前でA2級ポンプを備えていて棒状吸管を左右2本ずつ縦積みで計4本、車体方向に沿って積載していました。
梯子操作は車外乗車ポジションとちょうど反対側の梯子右側のターンテーブル基部やや上にある手回しハンドルやレバーで機関員によって操作されるようになっていました。
梯子の後下部に糸巻き式のホース巻き取りリールが備えられていました。
要目は機械式梯子の最大起立角度は75度、起立所要時間20秒、伸長30秒、360度旋回60秒となっていました。
装備としてはエアライン(梯体先端への空気補給パイプライン。
空気呼吸器が重くて嵩張って使用可能時間が短かった頃にはエアラインが多用されていました。
現在は特別救助隊などの長時間閉所作業用時の特殊な装備になっています。)と
梯子先端吊り下げ式ライフバスケット、発動発電機を装備していました。
昇降用リフターはついていませんでした。
従って、放水員さんがあらかじめ格納梯子の先端の位置についてから梯子を起立・旋回・延伸させるか延伸した後に梯子を昇るかどちらかになるのですが、大体前者だったようです。

当時の18m梯子車の雄姿の写真を下記のアドレスにアップロードしておきます。
ご覧になってみてください。


http://www1.plala.or.jp/TAKSOHO/CFD/L17/


昭和35年度予算でこの梯子車購入のために予算が600万円も組まれました。
当時、消防車両購入に対する自治省国家補助がどのくらいの割合だったのかはわかりませんが、富士山型甘食パン1個5円の時代でしたから相当高価な贅沢な消防資材であったことは間違いありません。
(現在は国と都道府県からそれぞれ1/3が検定合格を条件に補助されているようですが。)
ちなみに消防車両の価格としては昭和40年12月に初購入された普通化学車が同じく600万円、昭和41年11月購入の32m梯子車が1,800万円とそれぞれ予算が組まれていました。
水槽付ポンプ車は昭和35年当時で270万円の予算計上でした。
もっとも昭和36年当時の消防出張所の庁舎建物の新築建設予算が800万円前後でしたから消防車に限らず、当時の大型自動車自体の価格が驚くほど高価だったことがわかります。

この梯子車が購入された昭和35年には3月に大森出張所が新しく開設されたばかりでそれまでの消防署本署、穴川出張所、蘇我出張所、幕張出張所に加えて1署4出張所の体制が整った頃で117名の消防職員と1名の事務職員が当時勤務していました。
現在の消防局の規模からすると信じられないくらいコンパクトな組織でした。
(大森出張所はのち、千葉急行鉄道建設のため立ち退いて移転して南消防署本署となり現在の宮崎出張所に至っています。)
当時の消防長は2代目千代三郎氏でした。
(警察OB・千葉警察署署長歴任)
千葉市消防本部・千葉市消防署本署合同庁舎は昭和32年に完全竣工したばかりでこの建物は望楼つきの3階建てでした。
ちなみに千葉警察署(後に千葉中央警察署と改称)は当時この建物の向かって左隣、都川側に建っていました。
従って千葉市消防長に就任する千葉県警を勇退した元千葉警察署長さんはすぐ隣の建物に移動しただけということになります。(笑)

1階の消防車両車庫はお世辞にも広いとは言えず奥行きも18m梯子車を格納するのにほぼぎりぎりでした。
このことは後にさらにどんどん大型化していった新型梯子車を本署建物に収納することが不可能という問題を引き起こしていきます。
(早くも昭和41年に購入した警防課直轄特別救助隊の32m梯子車が消防署本署の車庫では狭くて高さも奥行きもないので西千葉出張所に車庫を建て増しして駐屯することになってしまいました。)

当時の東京消防庁と地方の道県の自治体消防のギャップは天と地くらいあって、30m梯子車なんか東消庁管轄ではすでに主要消防署本署に配置されていてそれほど珍しい車種ではなかったのですが横浜消防や大阪消防などはいざ知らず、都心から少しでも離れた千葉や埼玉、茨城、栃木、群馬などの地方県の県都自治体消防においてすら梯子車は高嶺の花であってましてや小都市・町村においてはまだ消防団の方が主力の状態でした。
そこに千葉消防に新規購入の梯子車が千葉県第1号で出現したわけです。
(前にも書いたことがあるように宇都宮消防もほぼ同時期に同じ梯子車両いすゞTX641改を購入したようです。
宇都宮消防のTX641改は後に昭和45年9月の福田屋デパート火災に18m梯子車1台のみで過酷な防禦戦闘に立ち向かう羽目になります。)
当時日本も徐々に高度経済成長期に差し懸かってきていて40年代前半には高層建築と言えるものは
千葉県庁、県企業庁(旧千葉市役所庁舎)、県警本部、千葉市役所、奈良屋・扇屋・田畑・京成奈良屋・そごう(塚本ビル)・緑屋の各デパート、国鉄千葉駅の駅ビルや柏戸病院などがすでに出現していました。
学校関係でもぼちぼち3階建てが建ち始めていて、3階建ての公団住宅などが見られるようになっていました。
時代の要請として地方中小都市においても梯子車は徐々に必要とされ始めていました。
千葉県で2台目の梯子車はたぶん同じく千葉消防の購入した32m梯子車L24になると思います。
船橋消防の購入した24m梯子車はほぼ同年代なのですがたぶん千葉消防の32m梯子車の方が少し早かったと思われます。

この18m梯子車C17が本格的に実戦投入されたのは前に千葉消防徒然話その2で書いたように昭和43年2月の奈良屋百貨店火災の時でした。
(現、セントラルプラザ建物跡)
奈良屋百貨店に隣接したライオン堂という衣料品店の店舗改築工事現場から出火した火災は燃え広がって奈良屋百貨店にも類焼しました。
この時18m梯子車C17は火元のライオン堂の改築現場の火災防禦にあたりました。
千葉消防にとっての初めての本格的中高層建物火災でいささか戸惑いはありましたが逃げ遅れ要救助者の救出・高層防御活動ともなかなかてきぱきしていました。
千葉消防の近代的な中高層建物の火災防禦、および救助活動の最初の1ページとしてはなかなか好成績だったと思われ、新聞も千葉消防はまだ不慣れではあったけれどよくやったと誉めていました。
(奈良屋百貨店火災の詳細は当千葉消防徒然話 その2をご覧下さい。)

悪夢の田畑百貨店火災はその3年後の昭和46年5月に起こりました。
この時は特別救助隊の32m梯子車(C24)、昭和45年に日本損害保険協会から寄贈を受けたばかりの15mシュノーケル車とともに臨場し、初期救助戦から長時間延焼防止戦と悪戦苦闘しました。
(途中から市原消防の32m梯子車の応援を受けることができましたが。)
この火災で明らかになったことは大規模建物の燃焼建物外側からの梯上放水は内部の上階延焼には気休めにしか過ぎないということでした。
実効的な戦術を行うためには多数の梯子車・ブレークスクワート車で建物内側から外部への炎の噴出を抑えながら火点の上層階に設けた延焼阻止の橋頭堡を確保しながら果敢に外部からと内部から同時進入して
制圧地域を広げていって火点上層階への延焼を迎え撃って阻止するという戦術が必要になるわけで、そのためには火災現場視察に訪れた東消庁のスタッフの漏らした、東京ならこの火災の規模なら梯子車は20台出場させるいう言葉に裏打ちされているわけです。
(実際、ホテルニュージャパン火災では梯子の架梯可能な
スペース限度いっぱいの台数の梯子車を出場させました。)
初期の人命救助戦と火災防禦戦を同時並行に行うには梯子車の絶対台数が必要なわけでその点で3台の梯子車しか持っていなくて有効な防禦戦術を展開できなかった千葉消防幹部をくやしがらせたわけです。
とは言え千葉消防も旧館屋上を利用したりしてかなり果敢な内部侵入を試みたのも事実で残念ながら大規模なフラッシュオーバーの発生で一時退避を余儀なくされてしまい上層階への延焼を阻止できなかった訳で、困難な戦闘に従事した隊員さんたちには本当にご苦労様なことでした。

18m梯子車L17は昭和50年1月の京成ストアー火災などを経たりしながら
(この火災の詳細は千葉消防徒然話 その11をご覧下さい。)
その後も県都中心部守護の要として活躍し続けました。
いすゞTXシリーズ全般の高評価に裏打ちされただけあって故障も少ない稼働率の高い良くできた車両であったようです。
面白いのは時々代替梯子車として臨港署本署に出向いていたことで臨港特別救助隊(昭和56年12月までは梯子特別救助隊でした。)
の32m梯子救助車L24の修理・点検時にレスキュー隊員を予備ポンプ車に載せるわけにもいかず
(東消庁ではそうしていましたが・・・)
その際には中央署本署から中央梯子分隊の18m梯子車L17を一時借用して梯子救助車として臨時運用していました。
昭和35年製のベテランオールドタイマーの梯子車にオレンジ服のレスキュー隊員が車外乗車して走行している風景はなかなか面白い光景でした。(笑)

18m梯子車L17は昭和55年12月に20年の長き任務を終えて引退しました。
中央署本署はその後ずーっと梯子車不在が続き、(車庫スペースの狭隘のため)
平成13年3月に長洲一丁目の新消防合同庁舎に119先端屈折式30m梯子車の新規配備により中央梯子小隊が20年ぶりに復活したのは皆様よくご存知のとおりです。

本年3月の稲毛本署への梯子車の増強によりいまや千葉消防は第一線梯子車10台を有するまでになりました。
(スノーケル車も含めて)
数年前の富士見町・栄町連続中高層建物火災発生にも何の苦もなく同時対処できるまでの充実ぶりは大変喜ばしいことです。
来年の花見川署本署新庁舎落成時にはおそらく特別救助隊の増隊や梯子車配置の移動等新しい動きが発生するものと思われます。


以上徒然のままに。


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投稿日:2003年8月17日
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投稿者 taksoho : 05:30 | コメント (0)

千葉消防徒然話 その18

千葉消防揺籃物語
消防レインジャー/特別救助隊・レスキュー編
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>masa様

千葉市 TAK


先日、千葉消防揺籃期の話として水上消防・中高層建物消防の書き込みをいたしましたが同様に、災害人命救助に対処するレスキュー隊についても、もちろん千葉県においては最初は何も無かったところから揺籃パイオニアとしての役割を担ってきました。
話はやはり古く昭和41年から始まります。


昭和41年9月20日に緑町(現、稲毛区緑町)の千葉市消防署(後の中央消防署)西千葉出張所に本部警防課直轄の消防特別救助隊が千葉県で初めて活動を開始しました。
事前に7月に横浜市消防局に合宿に赴いて直接指導を受けた後に正式開隊しました。(先日、ネット上で公開されていた千葉市政PRビデオ昭和42年製作千葉消防編で、設立されてそれほど時間の経っていない当時の特別救助隊のプロフィールをご覧になった方々も多いと思います。)
当初の隊員は11名で隊長と隊員10名が2交替でした。

最初は新規購入32m梯子車(ちば24号)が11月に届くまでは呼吸器や油圧救助器具などを積載したトヨタのダイナの幌付きトラックの資機材搬送車(ちば33号)が特別救助隊の機動力でした。
おそらく横浜消防に研修を受けに行った時もこの車両に機材を乗せて出向いていったのではないかと思われます。
(救助工作車はその時点ではまだなくて、奈良屋火災の年・昭和43年末12月に購入されました。)
なぜ、特別救助隊の駐屯地が西千葉出張所だったのかというと、当時の吾妻町の千葉市消防署本署の車庫は狭くて奥行きも高さもなくて同年11月に特別救助隊用に新規購入された32m梯子(ちば24号)が入らないので西千葉出張所の空きスペースを利用してスレート葺きの梯子車用車庫を建て増しして駐屯することにあいなりました。
西千葉出張所は出張所の中では一番、千葉市消防署本署や県庁・市役所といった市中心部に近い地理的条件だった点が好都合だったのでしょう。
ちなみに当時の特別救助隊員の服装は水色の安全乗車帽に紺の作業服上下(執務服)、火災出動時は銀色のアルミ吹き付け防火上衣着用でした。
当時千葉市消防本部はすでに千葉市消防署本署配備の千葉県第一号の昭和35年式18m機械式梯子車(いすゞTX641改)を所有していましたから千葉消防所有の梯子車としては2台目でした。

なにせ、かの東京消防庁にさえ昭和41年当時、消防特別救助隊はまだ設立されておらず、先行ポンプ車乗車の専任救助隊(東京消防庁での正式呼称は「救助隊」)や出張所ベースでの先行員が最前線で活躍していた時代でしたから、当時県庁所在地とはいえ、ほんの片田舎だった千葉市にとっては消防特別救助隊創設というのは、かなり思い切った先進的な決断だったわけです。

消防特別救助隊は当時は今でこそ標準的な呼称になった「レスキュー」という呼び方ではなく、「消防レインジャー」という呼び方でマスコミ的にも国レベルでも一般的に通用していました。
なぜ、当初は「消防レインジャー」と呼ばれていたのかというと、
消防特別救助隊を初めて創設した横浜消防は陸上自衛隊のレインジャーのメッカ、陸上自衛隊富士学校にてレインジャー課程訓練を受け、それを基礎にして消防救助技術を確立したようです。
そこから消防レインジャーの呼び方が始まって次第に定着したようです。
従来の一般の消防隊員では活動が困難な垂直高層化した建物と災害の複雑多岐化に対処できる特殊技能を修得した特殊部隊の意義からも軍隊組織に準ずる消防組織にとって「レインジャー」の呼称がちょうどぴったりだったのでしょう。

ちなみに、横浜市消防局オフィシャルホームページの「沿革」の記事に

・1963年(昭和38年)7月 レンジャー隊員陸上自衛隊にて訓練。

・1964年(昭和39年)8月 局機構改革により救助課新設、消防特別救助隊事務開始。

との記述が見られます。

また、参考までに、他消防においての記述では、
昭和43年に設立された静岡県富士市の市広報誌 昭和46年6月20日 91号 「消防レインジャー部隊」に関しての記事よりの引用で、

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住宅の高層化などで最近の火災は複雑化してきています。
こうした状況に対応するため、市消防本部は43年にレインジャー部隊を組織し、昨年ははしご車を購入しました。
レインジャー部隊は隊員16人。はしご車の使えない市街地のビル火災など、特殊火災の消火や人命救助を行ないます。
このため非常に危険が多いので、ふだんから厳しい訓練を行なっています。
さきごろも須津川上流の成谷堰堤で、救命索銃発射訓練、水平ワタリ、モンキーワタリ、持久走などの総合訓練を行ないました。

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この記述が「消防レインジャー」の役割と存在意義を端的に記述しています。

先出の横浜市消防局オフィシャルホームページの「沿革」の記事に

・1969年(昭和44年)6月 「第1回都市消防レンジャー技術大会開催,参加25都市、200人」とありますので、この時点では「消防レンジャー」の呼称が明らかに一般的にも自治体消防機関レベルでも国レベル(自治省)でも通用していたことになります。

現在一般的に使われている「レスキュー」の表現は東京消防庁が特別救助隊員のワッペンに書き込んだりした「TOKYO RESCOUE」の文字で使い始めたところからと思われます。
ちなみに世界標準では「レスキュー」の呼称が使われています。
2004年の某大新聞記事では「レスキュー発足30周年」などと書いていましたから、確かに東消庁特別救助隊発足から換算すると30年ですから、実際にはすでにその10年ほど前から消防特別救助隊制度は存在していたことになります。
ちなみに先日4月にイカロス出版から発売されたムック、「消防レスキュー隊」には「日本初のレスキュー隊」は各自治体消防機関それぞれの設立条件がばらばらなのでどこが「日本初」なのかは調べがつかないと書かれていますが、私、千葉市TAKの独断と偏見で申し上げれば、栄えある「レスキュー隊」第一号は昭和8年6月に設立された警視庁消防部(東京消防庁の前身)神田消防署の「専任救助隊」。
「特別救助隊」第一号は昭和39年10月の横浜消防の「消防特別救助隊」ということで断言申し上げます。

千葉消防でこの特別救助隊が本格的に実戦投入されたのは前に千葉消防徒然話その2で書いたように昭和43年2月の奈良屋百貨店火災の時でした。
(現、セントラルプラザ建物跡)
奈良屋百貨店に隣接したライオン堂という衣料品店の店舗改築工事現場から出火した火災は燃え広がって奈良屋百貨店にも類焼しました。
この時32m梯子救助車は奈良屋百貨店の屋上に避難した要救助者の救出、および、内部検索にあたりました。
千葉消防にとっての初めての本格的中高層建物火災と救助戦闘となりました。
(奈良屋百貨店火災の詳細は千葉消防徒然話 その2をご覧下さい。)

そして奈良屋百貨店火災を経験した年の昭和43年の暮れ12月には新規購入の本格的な一貫充実した救助装備・資機材をぎ装した救助工作車(トヨタFC100改)が千葉県で初めてお目見えしました。
(それまでは梯子車と幌付きトラックの資機材搬送車のペアで運用されていましたが、実質的には梯子特別救助隊の要素が強かったようです。)
当時、救助工作車という消防特殊車両は、珍しいことおびただしく、なんせ、かの東消庁でさえも救助車の導入はほぼ千葉消防と同時期の登場でしたから、(昭和43年8月1日に麹町消防署永田町特別救助隊が東消庁初の運用開始)それ以前には本格的救助資機材ぎ装を施した救助工作車はおそらく横浜消防しか、まだ、持っていなかったのではないかと思われます。
(先に記述した千葉消防の幌付きトラックの資機材搬送車や、神戸消防等の資機材搬送車的な限定的な呼吸器と油圧救助器具を積んだ小回りの利くジープに類する車両はある程度あったようですが。)
この新型救助工作車の導入をもって千葉消防の特別救助隊はそれまでよりさらに本格的な人命救助体制を有することになったわけです。
守備範囲はもちろん市内全域、東西南北、すべての方角を駆け巡っていました。

当時の千葉消防の救助工作車の雄姿の写真を下記のアドレスにアップロードしておきます。
ご覧になってみてください。
かなり貴重な資料と言っても差し支えないと思います。
(一番最初に特別救助隊に配備されたトヨタのダイナの幌付きトラックの資機材搬送車の写真もアップしてあります。)


http://www1.plala.or.jp/TAKSOHO/CFD/R81/


車両前部には運転席と指揮官席のシングルシートのみで、車両最後尾部分に隊員用の乗車ボックスが対面横座りシートで設けられていて、前後部には通路はなく、指揮・連絡は有線のインターフォンで行われていました。
(これが横浜方式ともいえるシステムパターンでした。緊急走行中のサイレン・警鐘・消防無線の鳴り響く中で、インターフォンのやり取りの音声を聞き取るのはなかなか大変だったのではなかったのかとも思われます。)
フロントウインチは張り出しバンパーに装備されていました。
夜間活動用の現場照明設備も十分なものを備えていました。

この救助工作車が積載していた装備リストを下記にあげておきます。
ボディーの観音開きドアに貼り付けてあったチェックリストを当時抜け目なく
書き抜きしておきました。
これもなかなかの貴重な資料です。
アップロードしてある写真と見比べてみてください。
現在の最新式救助工作車と比べてもさほど遜色ない装備の内容です。
いかに一番最初に救助工作車を企画・制作した横浜消防が先見の明をもって救助システムを構築したかが偲ばれます。


■進行方向左側ボディー収納(主に救助対応関係資機材)

・ロープ等    ・エンジンカッター ・ゴムボート1式 ・ボンベ2   
・救命索発射銃 ・チェーンソー    ・胴衣19着    ・背負具2
         ・トラクテル     ・予備ボンベ2  ・足ヒレ
         ・チルホール3式 
         ・滑車1
         ・予備燃料1缶
         ・ドンゴロス若干
         ・シャックル5

これらに加えてボディー下部にガス溶断機(酸素やり)が収納されていました。

(注:”トラクテル”、”チルホール”とも 可搬式ウインチのこと
   ”ドンゴロス”は救助作業時、当て布などに使用する毛布のこと
   ”シャックル”は重量物移動・引き上げ用の吊り下げ式簡易クレーン装置)


■進行方向右側ボディー収納(主に火災対応資機材関係)

・500W4   ・放射能防護服2   ・電気毛布2   ・ボンベ2   
・200W10  ・放射能測定器1式 ・昇柱具2     ・背負具2
・ゴム手袋   ・ガス検知器1    ・ヘルメット1   ・足ヒレ
・コードリール ・削岩機       ・夜光服
 あり5     ・レサシテーター1  ・サルベージシート
・コードリール ・防火衣12着    ・チェーンソー
 なし5               ・シーバー
                   ・皮手袋 

(注:”レサシテーター”心肺蘇生用人工呼吸器のこと)


■その他

・シャベル類はボディー最後尾両側に装着

・車両最後尾隊員乗車室の奥には空気呼吸器関係が走行途中で着装できるように多数格納されていました。

・ボディー上部

鋼管製三連梯子 鉤付き梯子 救助用担架 投光器用コードリール等が見受けられます。

・リスト記載外で格納場所不明

スローダン(緩降機) 油圧救助器具 救助用縛帯 救助マット 耐熱服 ハンド型拡声器


そして千葉消防にとっての悪夢の田畑百貨店火災は奈良屋百貨店火災の3年後の昭和46年5月に起こりました。
この時は中央署本署の昭和35年式18m機械式梯子車(いすゞTX641改)、北署本署の昭和45年に日本損害保険協会から寄贈を受けたばかりの15mシュノーケル車(日野TE120改)とともに臨場し、逃げ送れた田畑社長の初期救助戦闘から開始されました。
田畑社長の睡眠していた社長室から進入して検索を開始し、デパートの屋上からも同時進入検索しようとしたのですが猛烈な熱気と濃煙に阻まれて残念ながら社長さんを救助することはかないませんでしたが、戦闘の最初から本格的救助活動を実施したわけです。
そしてその後も長時間延焼防止戦に悪戦苦闘した防御戦闘部隊の作業の安全をバックアップしするという大切な任務を遂行しました。
(32m梯子救助車は救助戦終了後、移動転戦してデパート建物正面で梯上放水作業に鎮火まで従事しました。)
まるで溶鉱炉のように高層建物内部で高熱で燃え盛る濃煙のたちこめる足場の極めて悪い火災現場は言うまでもなく危険極まりないわけで、現場最高指揮官の大石局次長の配慮で、何とか消防関係者に関しては大きな事故もなくデパート建物のみの焼損で鎮火に漕ぎ着けたのはそれだけでも幸いなことでした。

その後、千葉消防の特別救助隊は2隊目の畑特救隊(のち、西千葉特救隊、臨港特救隊となり、現在の中央特救隊)、3隊目は都賀出張所に中央特救隊(のち、新設の殿台出張所に移動、現在の若葉特救隊)、4隊目は政令指定都市移行時に新設された緑特救隊と千葉市の発展拡大に伴って順次整備されていきました。
一番最初に設立された本部警防課直轄特救隊は美浜署新設の際に隊駐屯地は真砂の救助救急センター所在のままで美浜特救隊として美浜署に移管され現在に至っています。
(2隊目の畑特救隊設立の経緯については千葉消防徒然話 その6をご参照下さい。)

救助工作車も中央特救隊(都賀)、臨港特救隊、緑特救隊と増え続け、現在では中央特救隊(臨港)、美浜特救隊(救助救急センター)、若葉特救隊(殿台)、緑特救隊(緑署本署)の4台で市内をカバーしているわけです。
(臨港特救隊に救助工作車が増強配備された経緯については千葉消防徒然話 その16をご覧下さい。)
現在は4隊ともすべて救助工作車(R)と梯子救助車(LR)のペアで運用されています。
出場区域や災害種類、出動指定順位に応じて救助工作車と梯子救助車を乗り分けているようです。
例えば、中央区新田町の中高層建物火災第1出動の場合、最先着の中央特救隊は梯子救助車で、次着の若葉特救隊は救助工作車に乗って出場するといった具合です。
ただ、平成4年4月1日に千葉市の政令指定都市移行になって同時に緑特救隊が増加配備された以前には、しばしば同一特救隊でRとLの分乗出場が見られました。
例えば、臨港救助隊(現在の中央救助隊)、殿台の中央救助隊(現在の若葉救助隊)は千葉市中心部の中高層建物火災出場の際は自署所の初動の先着出場区分の際には同一隊で救助工作車と梯子車の2台に分乗して現場に出ていました。
具体的に言えば、例えば富士見1丁目で発生の中高層建物火災出場の場合、先着の臨港特救隊は臨港救助工作車(R)と臨港梯子救助車(LR)を同時に分乗して現場に出して、次着の中央救助隊は殿台Lとして梯子車のみで出場(特救隊としてではなくあくまでもL隊として)という図式があったわけです。
当時は残りの美浜救助隊を加えても3隊しかありませんでしたから残留警備のことを考えると特救隊1隊を残せる合理性を考慮していたのかもしれません。
緑特救隊が増設されてからはゆとりができたからでしょうか。
救助工作車と梯子車への分乗出場は最近は見られなくなってきているようです。
県消防学校や局消防学校への訓練出向の際にも以前は大体、救助工作車と梯子車の2台に分乗して出向いていましたが、最近は梯子車を車庫に残して救助工作車のみで出向している例も多いようです。
局全体で梯子車の数が充実したせいもあるのでしょう。

それにしても一番初期の特別救助隊組織を立ち上げてから奮闘しながら千葉市民の生命を守って今日に至るまで戦い続けてきた隊員の皆様に心より感謝と敬意を表するものです。
また、つい最近報じられた話しとして、総務省消防庁は、大規模災害時の消防・救急救助体制を強化するため、最新の装備を持ち高度な訓練を積んだ「特別高度救助隊」を全国の政令指定都市に整備する方針を固め、次年度予算の概算要求に盛り込み、早期の実現を図るということのようですが、千葉消防においても遠からず「特別高度救助隊」新編成に関しての新たな動きが見られることでしょう。

以上、徒然のままに。

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投稿日:2005年5月28日
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投稿者 taksoho : 05:31 | コメント (0)

千葉消防徒然話 その19

千葉消防揺籃物語
危険物火災消防:化学車編
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>masa様

千葉市 TAK

この千葉消防揺籃物語シリーズの書き込みで水上消防、中高層火災消防、災害人命救助と順次書いてきましたが、消防艇、梯子車、救助工作車などの各特殊消防車両同様、危険物/化学火災についても、もちろん千葉県においては最初は何も無かったところから揺籃パイオニアとしての役割を担ってきました。
さらに化学車C属のファミリーとして耐爆装甲化学車(CA)やドライケミカル化学車(CD)、高発泡車(CX)など新兵器の特殊車両も順次登場してきました。
話はいつものように古く、遡って昭和40年から始まります。

昭和40年12月に吾妻町(現、中央区中央4丁目)の千葉市消防署本署(後の中央消防署本署)に千葉市消防署本署化学分隊として新規購入の普通化学消防ポンプ自動車が千葉県で初めての危険物/化学火災対応消防車両としてお目見えしました。
千葉消防ナンバーリングはC18(ちば18号)とつけられました。
ナンバープレートは「53」でした。
当時は千葉消防では水槽付ポンプ車がA、小型ポンプ車がB、特殊車両がC、救急車がD、それ以外の無線車、火災原因調査車等がEとつけれられていました。
特殊車Cに分類される特殊車両はそれまでは昭和35年12月に購入された18m梯子車しかありませんでしたが、この新規購入化学消防ポンプ車が千葉消防にとっては2台目の特殊車両になりました。

車両はいすヾTXG50改で(TXシリーズ最終型のSr.6)、化学車の基準としてはV型に分類されました。
その普通化学車としての装備は、A2級ポンプ、1.3立方メートル積載水タンク、1.2立方メートル泡消火剤タンク、圧送自動比例混合方式装置とボディー上部に800型泡放射銃(レバー手動式ターレットノズル)、ブースターホースリールとハンドノズル、自衛噴霧ノズル装置を装備していました。


もちろん化学車としての能力の他にA2級ポンプと1.3立方メートル積載水タンクを備えた水槽付ポンプ車として「速消車」として使えるポテンシャルも兼ね備えていて、そのために、車両最後部の最下部(放水員隊員席の下)には古いホースカーの形式の箪笥の引き出し状の箱輅車(はこらくしゃ)が文字通り引き出し式に装備されていました。
千葉消防ではこのタイプの箪笥の引き出し型箱輅車装備はこの車両が一番最後になりました。

シートは運転席と指揮官席のみのシングルシートで、屋根はハードトップメタル製で、側方窓もドアもない飛び乗り型のシートでした。
放水員さんの隊員席乗車位置は車両最後尾に横座りの対面シートが設けられていて露天で雨風に曝されながら出場することになっていました。
それでも当時の小型ポンプ車(当時一番ポピュラーだったのは初代トヨタランドクルーザーFJ45V改型)の標準であった車両最後尾の水平バーにしがみつくようにぶら下がっての車外乗車走行は威勢のいい消防の華であり、いかにも消防魂の発露として勇壮なシーンなのですが、いかにも長時間乗車は疲れそうで、間違って後ろから追突をくらうとペシャンコにされそうで安全乗車の見地から見ると本当にハラハラさせられた乗車方法に比べるとはるかに安全でベターだったわけです。
もっとも当時千葉市消防署本署化学分隊に対する配員は通常、分隊長と機関員の2名/2交替だけでしたからいざ出場、あるいは他の出張所への緊急配備移動の際は2名乗車ですから最後尾の隊員席乗車位置は空いたままで通常走っていました。
しかし、しばしば水槽付ポンプ車の予備車としてのもったいないような使われ方もしており、(当時、千葉消防には十分な数の予備ポンプ車/救急車を維持する予算が振られていなかったようで、これが改善されたのは昭和46年5月の田畑百貨店火災でマスコミなどに叩かれて消防予算が大幅増額された後になります。)その際には予備車としての派遣先の出張所ではポンプ1分隊として4名乗車で稼動していました。(ポンプ2分隊の場合、3名乗車。)

化学車という特殊車両については、当時の首都東京消防庁と地方の道県の自治体消防のギャップは天と地くらいあって、化学車は東消庁管轄ではすでに主要消防署本署/出張所に配置されていてさほど珍しい車種ではなかったのですが、都心から少しでも離れた地方道県の自治体消防においては化学車は高価な高嶺の花でした。
しかし、時代の要請として地方中小都市においても危険物/化学火災対応の化学車は徐々に必要とされ始めていました。
昭和30年代末から40年代にかけては当時日本はアジア初の東京オリンピックを成功させて高度経済成長期に差し懸かってきていて京浜・京葉地区や阪神地区、中京地区はウォーターフロント沿岸部の大規模な埋め立てが進行して大規模な石油コンビナート、石油貯油・精製施設などが目白押しに造成されつつありました。
千葉市地先でも遠浅海岸の大規模な埋め立てが始まり、昭和25年の川崎製鉄の誘致からはじまり、昭和31年に東京電力千葉火力発電所操業を開始し、昭和37年には工業開発中心の千葉県長期計画が策定され、工業化が大規模に促進され、さらに千葉港が昭和40年に特定重要港湾に指定されました。
また新港埋立地の石油精製所/石油タンク群建設など、大規模危険災害の発生する環境が増してきました。
もうひとつ、さまざまな紆余曲折を経てようやく昭和53年に新東京国際空港(成田空港)が開港し、日本の空の新しい玄関となりました。成田空港建設/開港にからんで、貨物列車によるジェット燃料輸送、および、花見川に沿って作られた石油パイプラインへのテロの脅威も、大きな危険災害発生要素となりました。
このような増大する危険物災害に対処するために化学消防体制が徐々に整備されていきました。


例によって当時の普通化学消防ポンプ自動車の雄姿の写真を下記のアドレスにアップロードしておきます。
ご覧になってみてください。
耐爆装甲化学車とドライケミカル化学車、高発泡車の写真も載せてあります。


http://www1.plala.or.jp/TAKSOHO/CFD/C53/

その後の千葉消防の化学車の整備は次第にアップテンポになってきて、昭和43年12月に南署本署(当時南署本署、後の蘇我出張所)、昭和46年2月に南署本署(南署本署は蘇我から宮崎町に変更)、昭和46年12月に同じく南署本署(前の車両は昭和46年4月に新規開設の千城台出張所・現在の若葉消防署に移動)と、かなり化学車が重点的に整備されました。(新規購入の車両は全て普通化学車・CP)
もちろん、先に購入されたC18と同様、水槽付ポンプ車のポテンシャルも兼ね備えていましたので、各署所の先行ポンプ1分隊として火災出場最前線で第一線で活躍しました。


さて、産業の高度化にともなって普通化学消防ポンプ自動車レベルでは対処できない事態が想定されるようになってきて、各種新型/高性能化学車が登場してきました。
危険物火災消防の華、耐爆装甲化学車(CA)は千葉県では市原消防が昭和47年に一番最初に導入して、千葉消防はそれに次いで昭和49年4月に千葉県で2台目の導入になりました。

市原消防の導入した耐爆装甲化学車はいわゆる「川崎型」でいかにも重機クレーン車然とした角張った武骨な重厚なフォルムでした。(全長9.385m、総重量19.3t)
千葉消防の耐爆装甲化学車C19は、いすゞSPG650改でフォルム的にはデコボコが減ってかなりすっきり洗練された容姿になっています。(全長10.122m、総重量19.165t)
よく、堺市高石市消防組合高石消防署高師浜出張所の耐爆装甲化学車と千葉消防の耐爆装甲化学車は同型車両ではないかとのご質問をいただきましたが、堺・高石消防の車両はいすゞシャーシーではなく昭和54年製の三菱ふそうK−FT102NC改になります。
ただ、フォルムも配置も細かい点を除いては(ターレットノズルの防楯の形状が千葉型は川崎型と同じ完全半球なのですが、ふそうにぎ装した型は上部がカットされた最上部が平らなちょうどタライをひっくり返したような形状になっています。またボンネット上にふそうの方は四角のトラメガ風のスピーカーが載っていますが、千葉の車両にはこれがありません。)実によく似ていることも確かですのでシャーシーメーカー違いの準同型といっても良いのかもしれません。
もっとも、少し遅れて石油精製施設や石油コンビナートであちらこちらの民間企業さんが購入した耐爆装甲化学車はこの三菱ふそうシャーシー型が圧倒的に多いようです。

自治体消防で耐爆装甲化学車を導入した機関は当時、私の知る限りでは、

・大阪

昭和45年4月の大阪市天六都市ガス爆発大事故を踏まえて大阪市消防局がこれの直接対策として昭和45年に従来からあった重化学車をベースに耐爆機能を持った耐爆型化学車を4.5mmの高張力鋼の装甲板を貼って試作し、これが装甲化学車の嚆矢となりました。

この「試作大阪型」は戦車や装甲歩兵戦闘車などの装甲戦闘車両というか、積み木細工を重ねあわせた建設工事用の重機のような印象の車両でした。


・川崎、市原、水島(倉敷市)、四日市、新潟

以上「川崎型」。

前記「試作大阪型」を範に翌年46年に川崎市消防局がこの大阪消防試作の車両をベースに、より実用性を高めて完成されたものです。
装甲化学のプロトタイプになった完成された耐爆装甲化学車は要目、前2軸、後1軸、ホイールベース5.1m、全長9.385m、総重量19.3t、A1級ポンプ搭載。
4.5mmの高張力鋼板。内板1mm。
間に50mmの断熱材を挟んでいました。
すべての窓にはスリット入り鋼板覆いが付きました。
防楯付のターレットノズルに3000型泡放射砲と5000型放水砲を油圧で切替えて使用できました。
(最初の「試作大阪型」の車両は隊員が外に出て人手でノズルの付け替えをしていました。)
また、運転席の屋根にドライケミカル放射装置を備えた複合型化学車でした。


・千葉、堺・高石、川崎2(2台目の耐爆装甲化学車)

以上「千葉型」。

外見はかなり洗練されましたが、性能は「川崎型」とほぼ、同じ。
ドライケミカル消火装置も装備していました。
追加性能として爆発発生危険度大の際には隊員が車両を離れて安全地帯から3000型泡放射砲/5000型放水砲を無線リモコンで操作して泡放射/放水できるようになりました。


・東京(羽田の空港出張所配備)

千葉消防と同時期の昭和49年に蒲田消防署空港出張所(当時)に東消庁で初めてCAいすゞSPM550改(車両識別番号C4989)が配備されました。
これは、川崎型、千葉型とは全然違ったデコボコのない箱型フォルムでした。また、3000型泡放射砲(5000型放水砲と人手で付け替えも可能)も2基装備していましたが、ドライケミカル消火装置は積載していませんでした。
ただし、装甲は川崎型、千葉型と比べて多少薄くて外板2.3mm、内板1mmの二重構造で、間に50mmの断熱材は挟んでいませんでした。
前進/後退/泡放射/放水が有線リモコン操作(120mの巻ケーブル付移動式操作盤で操作)できました。


以上が私が知っている限りの自治体消防配置になります。
あるいは他にも耐爆装甲化学車を導入した自治体消防機関があったのかもしれません。

千葉消防の耐爆装甲化学車は購入当初は真砂の局本部の警防課直轄特別救助隊が耐爆装甲化学車を救助工作車、梯子救助車とともに運用していました。
後に、昭和50年1月に中央消防署水上出張所が臨港消防署本署に昇格した際に、同署本署に移動してその後、最後まで臨港で運用されました。
(臨港消防署本署は平成4年4月1日に千葉市の政令指定都市移行にともない、中央消防署臨港出張所に降格。)

そして、各自治体消防の導入した耐爆装甲化学車はその後更新されないで、性能的に非耐爆、非装甲にトーンダウンした大型化学車/重化学車に置き換えられたケースが多いようです。
東消庁のレインボー5のような消防ロボットや消防ヘリコプターからの薬剤散布等の新しい人的危険回避技術も進んできたこともあります。
千葉消防でも結局、耐爆装甲の更新はされず日野の8tシャーシーの大型化学車に置き換わってしまいました。(残念!?)
まあ、ある意味では更新の必要性を再認識させるような耐爆装甲化学車の真価が本格的に発揮される大規模危険災害に遭遇せずに終わったことは幸いであったとも言えます。
なお、東消庁、堺・高石では装甲板が薄くなったり窓ガラス保護のスリット入り鋼板覆いがなくなった軽快な空港用クラッシュガードに近い車両に替わっています。
また、近年、横浜消防と北九州消防がスーパーファイター/スーパーレスキューと名づけた大震災対策を主眼に置いた耐熱救助車/耐熱装甲型救助活動車が製作されてかつての耐爆装甲化学車を髣髴とさせるものがあります。

また、上記の化学車C属ファミリーの一員として、ドライケミカル化学車(CD)を千葉消防が千葉県で初めて昭和55年12月に導入しました。
DC化学車は化学車の中でも極めて特殊な化学車で、1立方メートルの大きな球形粉末容器そのものに車輪4つとハンドルをつけたような、いわば、走る大型消火器とでも言える極めて特殊な消防車両でした。
どのような経緯、意図的で導入されたのかははっきりっとはわかりませんが、千葉消防での昭和53年10月の臨港消防署高浜出張所への化学3点セット配備に次ぐ、臨港署本署への2セット目の化学3点セットの導入(高所放水車仕様のシュノーケル車:LSと泡原液搬送車:SO。これに既購入済みのCAを組み合わせて3点。)と同時に購入されたのであるいは石油施設立地交付金の絡みがあるのかもしれません。
石油火災のみならずガス火災、電気火災、アルコール火災等の特殊火災に対処できました。
適応火災A、B、のCいずれも有効な燐酸塩類等を主成分にした第3種粉末薬剤を積載していたと思われます。


この車両は最初、中央署本署に配備されました。
その際には運転席屋根の隊名表示灯に「臨港消防署」と書かれていてしばらくそのままで中央署本署で稼動していましたので、最初は臨港署本署、あるいは高浜出張所で使う予定だったようです。
後に平成2年1月に臨港署高浜出張所に移動して大型化学車:CC・高所放水車仕様のシュノーケル車:LS・泡原液搬送車:SOの化学3点セットと並んで別棟車庫に格納されていました。
その後、平成5年4月に美浜消防署打瀬出張所が新規開設されるとそちらに移動して平成平成13年3月に引退しました。
ちなみに、ドライケミカル化学車のいちばんはしりは東消庁になります。
昭和40年代初めにだだ1台だけ製作されて麹町消防署永田町出張所に置かれていました。
ちなみに、このDC化学車は昭和43年8月1日に麹町消防署永田町特別救助隊が東消庁初の運用を開始した当時、同特別救助隊が永田町化学小隊の切り替え運用をも併せて担当していました。
東消庁では更新はされずDC化学車はこの車両で終わってしまいました。
千葉消防でも同じく、結局、車両更新はされず大型化学車に置き換えられてしまいました。

千葉県で一番最初に導入された千葉消防の高発泡車(CX)は(高発泡車も化学車C属ファミリーの一員です。)昭和48年3月に南消防署本署に新規配属されました。
いすゞTXDロングノーズボンネットの最終型Sr.6。
低床シャーシーのダブルキャブで窓もドアもないいわゆる飛び乗り型のシートでした。
千葉消防ナンバーリングはC59(ちば59号)とつけられました。
ナンバープレートは「1526」でした。
後部ボディーは非常に大きな箱型で、ちょっと見ると救助工作車と見間違うようなスタイルでした。
ボディー後面にはホースカーと同様な積載方法で可搬型エンジン動力式高発泡機が積まれていました。
その奥は観音開きのドアになっていて可搬型高発泡機を降ろしてからその扉を開いて本体車体積載高発泡機につながった太い直径の発泡チューブを引っ張り出す構造になっていました。
ボディーの側面には救助工作車と同じように観音開きの扉が付けれられていて予備の発泡チューブや分岐チューブが入れられていました。
さらにはボディーの収納スペースに収まりきれない予備発泡チューブが後部隊員席の右側にも積まれていました。
時期的に見て、いすゞTXDボンネットの型の車両としてはかなり最終生産に近い車両になると思われます。


その後昭和48年6月に一時期、南署本署を離れて真砂の局本部の警防課直轄特別救助隊に配属されましたが(試験的に梯子救助車、救助工作車、高発泡車の3台ワンセットの横浜消防の特別消防隊にならってみたのかもしれません。)翌年4月に再度南署本署に再び戻ってきて、昭和50年1月の京成ストアー第4次建物火災ではエポックメーキングな大きな活躍を見せました。
(京成ストアー第4次火災の詳細については千葉消防徒然話 その11をご覧下さい。)

その後南署本署から北消防署畑出張所に移動して、昭和53年4月には畑出張所からより市中心部に近い千葉消防特殊車センターとも言える臨港署本署に移動しました。
臨港署本署の高発泡車C59は平成2年1月に新規の高発泡排煙車に更新されて現在に至っています。
従来の高発泡注入機能に加え、空気を送出、吸入しての排煙機能が新たに付加されたわけです。

なお、化学車C属ファミリーには東消庁分類ではCSとされているHAZ-MAT・特殊災害対応車も含まれているのですが、(この車両も千葉消防が千葉県で一番最初の導入ですが)これについてはまた、稿を改めて記することにします。


以上徒然のままに。

投稿者 taksoho : 05:33 | コメント (0)

2007年12月31日

千葉消防徒然話 番外編 その1

千葉市消防団の装備


>masa様

千葉市 TAK

横レスで失礼します。
ご指摘の通り現在、千葉市消防団の装備車両は小型動力ポンプ積載車しかありません。
しかし、昔はポンプ車を装備していました。
昭和41年予算年度までは必要に応じて消防本部/消防局の第一線使用車両とまったく同じ小型ポンプ車の新車(たとえばトヨタランドクルーザーFJ45V改)
を新規購入して支給していました。
また、なんと一時期、いすゞTXG10クラスの水槽付ポンプ車まで持っていました。
(これは昭和44年の土気町との合併で土気町消防団の所有車両が千葉市消防団に第21分団として組み込まれたためです。土気町消防団は編入までは消防最前線部隊でしたのでなかなか士気が高かったようです。)
しかしそれ以降は新車支給を止めて、消防局で経年更新の予備ポンプ車として使用終了した老朽車両(はっきりいえば廃車レベル)
をまわすようになりました。
あるいは更新期限を過ぎたようなそれまでの所有ポンプ車を引っ張ってだまして使っていました。
従って、消防団の所有車両は一時期、まあ、スクラップに近い古い車両ばかりになってしまって団の側でかなり不満が募っていたようです。
ひとつには昭和46年の田畑百貨店火災において当時の現場最高指揮者の大石局次長が防御投入部隊を局職員のみに限ったため、(高層ビル火災の戦闘なので無用な事故が起きないようにむやみな人員投入を避けたこと。)
それ以降消防団は第一線にはあまり出なくなりました。
せいぜい中継送水作業くらいになりました。
大都市消防でも西日本などでは第一線部隊として消防団が中高層建物火災や危険物火災などにまで出場している例は結構あるようですが。
面白いことに昭和52年度以降、7〜8年くらいの間消防出初式には局所有の小型ポンプ車はまったく出なくなって
しまっていました。
これは出初式に小型ポンプ車(とりわけ新車)を見せてしまうと団の側の不満がつのるのでという話でした。(笑)
局の団係の方もなかなかご苦労があったようです。
確か昭和61〜2年前後くらいだったかと思いますがとうとう団の側の不満を解消すべく超老朽車両を一挙大量に新規購入の小型動力ポンプ積載車に更新しました。そして数年にして全部入れ替えてしまいました。
それ以来千葉市消防団の装備車両は小型動力ポンプ積載車一本に統一されました。
団長さんにもセダン型指揮車が支給されました。
以降、消防出初式にも局所有の小型ポンプ車が出てくるようになりました。(笑)

以上、ご参考になれば幸いです。


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投稿日:2001年12月3日
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投稿者 taksoho : 05:35 | コメント (0)

千葉消防徒然話 番外編 その2

千葉消防の移動貯水車


>masa様

千葉市TAK


10t積載型水槽車(SL)のことですね。
千葉消防では移動貯水車と称しておりました。
車両形式はいずゞSPG540の3軸ロングシャーシー、車両の最後尾にB2型ポンプを備えていました。
最大の特徴は水槽がステンレス製の乳製品や飲料を運搬するタンクローリータイプでいざという時は生活飲料の給水車としても使えることでした。
この車両は昭和52年12月に千葉消防に寄贈(!)されました。
ずーっと真砂町の局本部に置かれ、警防課直轄で運用されていました。
平成4年4月に政令指定都市になると同時に緑署本署に配置替えとなりました。
まあ、あんまり活躍はしていなかったようで、演習・出初式以外で緊急走行していたところは1度も見たことがありませんでしたね。
山林火災などにはそれなりにときたま出ていたんでしょうが。
平成9年中まで在籍していたようですが結局更新はされませんでした。
更新されなかった最大の理由は千葉消防が政令指定都市になった時期にあわせ従来の1.5t積載型水槽付ポンプ車を4.5t積載型水槽付ポンプ車に切り替え購入・運用を始めたことが最大の理由と思われます。
確かに4.5t積み2台あればSL1台とほぼ同じなのですから効果対費用の面でメリットが少なくなったんでしょう。

先程この車両は寄贈されたと書きましたが、愛称を”斉藤7号”とつけられておりました。
これは斉藤市蔵さんとおっしゃる斉藤油脂株式会社の社長さんが消防車寄贈マニアでいらっしゃって
昭和36年10月に水槽付ポンプ車を寄贈以来、
(初代”斉藤号”、蘇我出張所に配備)、
昭和43年に救急車2台、
(”斉藤2号、””同3号”、穴川と中央署本署に配備)
昭和47年に水槽付ポンプ車2台
(”斉藤4号、””同5号”、西千葉と幕張に配備)
昭和51年にマイクロバス型指揮統制車
(”斉藤6号”、局本部警防課に配備)
そして最終寄贈の7号車が前述移動貯水車でした。
(斉藤さんがまだご存命かどうかわかりません。)

まあ、消防予算貧弱なりし頃の千葉消防にとってはまことにありがたいご厚意でした。


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投稿日:2000年2月18日
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投稿者 taksoho : 05:37 | コメント (0)

千葉消防徒然話 番外編 その3

臨港1小隊使用車両の隊名表示について


>消防都纏 様

千葉市 TAK


こんにちは。
ご回答が遅くなりましてすいません。


>臨港の1小隊は化学車なのにドアの文字は
>臨T-1となっています。


お尋ねの臨港1小隊の使用車両(C2)の隊名表示が化学車なのになぜ臨T−1
(水槽付ポンプ車の扱い)
になっているかですが、これは同一署所での化学車の複数台配置によるものと考えます。

他例を見ていくと美浜本署のポンプ1小隊は大型化学車を使用していますが、ドア下の隊名表示は
美C−1になっています。
当然こちらの表示が原則的・普遍的で、臨港1小隊の使用車両もこれに倣うべきなのですが、それではなぜ、T表示になっているのか、車両種類区分としてはホスカー付普通化学車(CP)に間違えなく認識区分されているわけで車両コードは平成1年3月に南署本署(現・宮崎出張所)に新車就役以来ずーっとC2の筈です。
別に化学消火装置を取り外したとかいうことはまったくありません。
この普通化学車(CP)が平成8年3月に宮崎出張所から臨港出張所に配置替えされた時点で、すでに臨港に配置されていた大型化学車(耐爆装甲化学車を更新した車両)に臨C−1と書かれてあった表示を臨C−2と書き換え、新規転属配置の普通化学車(C2)に臨C−1と書き込むべきだったのでしょうが、
おそらく大型化学車の表示をも書き換えるのがちょっとだけ面倒だったんでしょう。(笑)
大型化学車の表示を臨C−1のままにして普通化学車(C2)の表示を臨C−2と書く方法もあったのでしょうが、ポンプ1小隊として使用するのでそうしたくなかったのではないのでしょうか。
(あくまでも推測ですが。)

なお、化学車の複数重複配置の実例としては南署本署が嚆矢です。
昭和54年2月にもともとあった普通化学車(C43)に加え、(南署1分隊として運用されていました。)
損害保険協会より寄贈された大型化学車(C10)が追加配備されて重複運用されました。
その後配置移動があって南署本署にポンプ1分隊に生浜から水槽付ポンプ車が廻ってきて化学車の
重複配置は一旦消えましたが、平成1年3月に上記のとおり、普通化学車(C2)の新規配備に
よって再び重複配置が復活しました。
平成8年3月に先に書いたとおり普通化学車(C2)が宮崎出張所から臨港出張所に配置替えされたことで重複配備は消えました。

また平成2年1月に、それまで中央署本署に配備されていたDC化学車(CD)が高浜出張所に配置替えされて、すでにあった3点セットのユニットの大型化学車と重複配置になったことがあります。
DC化学車はその後平成5年4月の打瀬出張所の新設にともなって高浜より転属して重複配置は消えました。

化学車の同一署所への重複配備は東消庁でさえも非常に珍しく、せいぜい空港分署くらいのものです。
市原やら袖ヶ浦やら成田あたりでは化学車の台数が多いので見られるかもしれません。


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投稿日:2001年4月3日
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投稿者 taksoho : 05:38 | コメント (0)

千葉消防徒然話 番外編 その4

貴方の家の隣に消防出張所を作ってもらう傾向と対策


千葉市 TAK


>masa様

最近こちらのネットでは稲毛・花見川地区の消防力不足を指摘なさる声がしきりに交わされていますが、タイトル通り、貴方の家の隣に消防出張所を作ってもうらう方法を実例を混えてちょっとご紹介申し上げます。

昭和58年5月に南消防署管内の越智町
(当時。現在は緑署管内)
に突如、越智出張所が業務を開始いたしました。
これは極めて寝耳に水でそれまでのいかなる千葉市の長期計画にも記載されていないものでした。
昭和55年3月に南署管轄に泉出張所。
昭和56年3月に同じく南署管轄に土気出張所が開設されていましたので市の東部、東南部の消防力整備拡充は一応終わったものとばかり思っていましたので心の底から驚いたわけです。
しかし、しばらくしてその事情がわかってきました。
実は角栄建設さんという建設会社が角栄団地という大規模な戸建住宅団地を分譲するにあたって敷地、
建物、ポンプ車・救急車などの消防車両を自前で提供して越智出張所を新設してもらったのでした。
(職員の人件費はどうだかわかりません。
たぶん年数を限って負担したのではないかと思われます。)
この方法は請願消防制度と言いまして、古く昭和の初期から行われていた制度なわけです。
デパートや競技場・ホールなどの人の多数集まる場所に警備の消防職員の派遣だけの場合と、例えば万博会場内に臨時の消防出張所を設けて常駐してもらう方法とがあるわけです。
越智の場合は当然後者で、建設会社側では団地に消防署も交番も(約300メーターくらい土気駅寄りの熊野神社というところに土気幹部派出所という交番がすでにありました。
いまは土気駐在所と統合されて土気駅前交番になって現在はありません。)ありますよと
いうことをひとつのセールスポイントにしたわけで、千葉消防にとっても署所の管轄の条例を市議会に
変更決議してもらうだけで財政負担なしで消防力強化ができるのですから双方メリットがあったからということだったのでしょうか。
同じように貴方の家の隣にも消防出張所を誘致できる可能性があるわけです。(笑)
(ただし、少なくとも1.5km範囲内にすでに消防署、あるいは出張所があると駄目でしょうけれど。)
話題の「幻のこてはし台出張所」もこの方法で実現させられる可能性があるわけです。
仮に、住宅都市整備公団あたり、あるいは付近の町内会の連合会が前記の費用を提供できれば敷地はすでに確保されているのですからそんなに難しいことではないと思われます。
千葉消防の側でも横戸消防用地のそばには花見川本流が流れているのだから大容量ポンパーとホース延長車もついでに寄付してもらえばなんて虫の良いこと考えたりしてみてはいかが。


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投稿日:2000年3月28日
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投稿者 taksoho : 05:39 | コメント (0)

千葉消防徒然話番外編 東京消防庁バージョン その1

東消庁の今世紀最大のミステリー??? 


千葉市TAK

>ROPPY様


こちらこそ。別にたいした知識もあるわけでもないのですが何かお役に立てることでしたら何なりとご遠慮なく協力させて下さい。
先日の昭和50年前後の京橋消防署の移築に伴う署所の玉突き移動の件につきましてちょっとだけ補足を。
実はその時に廃止になったのは八重洲出張所だけではなく、新富出張所、および、桜橋救急隊も同時に廃止になりました。
京橋署本署が銀座から白魚橋に移築されたため新管轄区分がだぶるようになったためです。
桜橋救急隊とは一体何のことだ?と、おっしゃるかもしれません。
実際は実質的に新富出張所の救急隊のことなのです。
当時の新富出張所庁舎はかなり古くて狭くてボロくてポンプ車単隊のみしか置けない状態でありましたのでわざわざ歩いてほんの数分のところに桜橋救急隊庁舎を設けたようです。
場所は現在ある東京都桜橋ポンプ場の敷地内でした。
東消庁で救急隊が独立して運用されたのはこの事例しかおそらくないと思われます。
今でこそ、各地消防局・消防本部にドクターと高規格救急車が常駐の救急センターが各地に設立されていますが先の例はそのような進歩的な話しではなかったようです。
些末な話しですいません。

お詫びにお遊びを一つ。


−−−東消庁の今世紀最大の謎。と、かけて−−−

・なぜ第4方面の42Rが欠番なのか?

・下連雀LRとは?

・新宿Rは実は41Rではなかった??

ミステリアス・・・

−−−−−−そのこころは−−−−−−

・昭和44年に東消庁に初めて永田町特別救助隊11Rが設置されて特救東京レスキューの歴史が始まりました。
空港21R、目黒31Rと順次山手線を時計回りに各方面宛1隊づつ新設されてゆきました。
そして次の41Rは野方消防署大和出張所に配置の大和特別救助隊でした。
増強は更に続き、城東71R、立川81R、 板橋51R、足立61Rと1から8の各方面全部に配置を完了しました。
その後、昭和49年に第2次増強プランとして繁華街シリーズが始まりました。
松涛32R(渋谷)、新宿42R、豊島52R (池袋)と3大繁華街をキープする部隊の配置が完了しました。
それとほぼ同時並行的に梯子特別救助隊なる部隊が整備されました。
渋谷LR、淀橋LR(後に十二社LR)、豊洲LR(後に深川LR)、下連雀LRの4隊がそれです。
梯子特別救助隊については今まであまり 正面きって報じられることがありませんでした。
私の記憶では10年位前に12チャンネルテレビ東京で東京都提供の日曜日の早朝のPR番組で深川LRの活動内容が30分番組で放送されました。
(その時には豊洲出張所は高所放水車、大型化学車、泡原液搬送車のいわゆる3点セットのベースとなっていて豊洲LRはすでに深川署本署に移動して深川LRとなっていました。)
実際に深川署管内での中高層建物火災1次出場には城東Rなどの救助車は出場いたしませんで した。
豊洲LR(後に深川LR)がすでに出場して いたからです。
もう一つは昭和52年5月13日に起きた江東区辰己1丁目で起きた新興海陸運輸倉庫火災の際、 猛烈なバックドラフトの発生で消防職員16名、民間人5名が重軽傷を負った災害時に第一線で架梯して梯上放水中の豊洲LR隊員4名が熱傷を負ったことが新聞に大きく報じられたこと位です。
このときにも災害の大きさにも かかわらず救助車は最後まで出ずじまいでした。
特に昭和60年前後から一般梯子隊員の執務服がオレンジの救助服に代わってから左腕のセントバーナードのレスキューワッペンの有無と胸の隊名の縫い取りを見ることでしか梯子特別救助隊員と一般梯子車隊員は区別できなくなってしまいました。
梯子救助隊車の梯子車両も ちょっと見には隊名識別板も隊名標識灯も含めてLRとの区別を示すものは何もありません。
(隊名識別板、隊名標識灯には単に「渋谷L」などとしか書かれていません。)
僅かに積載されている器材の格納箱の表やサーチライトの保護カバーに「深川LR」などと書かれていることと、毎年冬になるとTVの特番で消防特集番組がいくつか放映されますがその際に映る火災・救助出場指令時に点燈される出場表示板に「渋谷LR」と書かれていることぐらいです。

さて、ようやく本題に入ってきます。
昭和52年11月に4方面に杉並43Rが新設されて4方面はR3隊体制となりました。
ところが昭和54年10月に大和41Rが廃止されて41Rは一旦欠番となってしまいましたが、
いつのまにか新宿Rが41Rに隊番号が変更されていました。
今度は42Rが欠番です。
ところがミステリアスなことに新宿Rは41Rに変更、杉並Rは42Rとなることなしに43R、42Rは欠番のままとして現在に至っております。
まことにミステリアスな話、そのものです。

繁華街シリーズ後も救助車隊は順調に増え続け、他の方面本部に第2の救助隊が新設されだしました。
芝12R、本田72R 、武蔵野82Rのグループ。
次に品川21R。
そして先程の話しの杉並43R、上野62R、
八王子83Rのグループ。
ここ5〜6年間位に設立された世田谷33R、練馬53R、江戸川73R、町田84Rのグループ。
(9方面新設にともない、八王子83Rは91Rに、 町田84Rは92Rに後に変更)
最も最近では一昨年にとうとう深川LRも74Rとなり7方面本部には4隊もの救助車隊ができあがった。
おそらく2方面HR、8方面HRに続いて新たな方面HRの設立のための布石なのではないかと思われます。
そして梯子特別救助隊はいよいよ渋谷LRを残すのみとなりました。
松涛32Rは渋谷署本署に移動して渋谷32Rとなり、現在渋谷LRと同居しています。間もなくLR制度は消えるのではないでしょうか。

(渋谷LRは平成6年4月に廃止になってLRはすべて消えました。:筆者注)

(42Rが欠番になってしまったわけは後にebara71さんのご指摘で42は「しに」、つまり「死に」に通じるので救助隊にとってふさわしくないからだと判明しました。
他にも9方面の94Rは欠番で多摩Rは95Rです。:筆者注)

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投稿日:1998年09月13日 Rescue119さんのBBSに書き込み
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投稿者 taksoho : 05:41 | コメント (0)

千葉消防徒然話番外編 東京消防庁バージョン その2

RE:RE:はしご特別救助隊


千葉市TAK


さて、ebara71さんにお教えいただいたとおり東消庁はしご特別救助隊は役割を終えて消滅して
しまったようですが、その存在意義とは何だったのでしょうか?
勝手な私見といたしまして、

1.
ごく単純に言えば建築物の高層化・超高層化に対する未知の環境での救助・防禦活動のお手本作り。
当時の急速な建物の高層・超高層化で、標準の30m梯子では当然間に合わなくなり
35m、37m、40m、45m、48m、50mと
(東消庁では相変わらず今でも40mが最高なのですか?)
天に向かってジャックと豆の木のように伸びつづける梯子車にあわせて、より高層での活動の見本作り、言い換えればいずれは起こるであろう超高層建物火災での下からの梯子車と上からの航空隊ヘリコプターとの垂直連携戦術のサンプル作りの役割を期待されていたのではないか?
(その後江東区南砂の超高層マンション火災が起こるべくして起こったのですが。)

2.
はしご特別救助隊が4隊設立された昭和49年頃はちょうど、梯子車の戦術が壁に突き当たって転換期を迎えていた時期ではかったのか?
と、申しますのは梯上放水が窓や壁を突き破ってきた増勢火炎の制圧以外にはあまり効果が薄かったということがあると思います。昭和46年5月の千葉市の田畑百貨店の火災においても目の前で見ていても建物外部からの梯上放水は、ほかに為すすべがないので仕方なく続けていたとしか思えませんでした。一階から出火して順次上層階に燃え上がっていったのに上階に延焼阻止の拠点を確保できなかったことが実質全焼してしまった結果になったようで、まだ消火活動中に早々東消庁から調査団が来訪してデーター収集をしていました。
建物外側からの梯上放水の効果の薄さに対する対策の一つがブレークスクアート、ボーリング放水塔車の登場につながったと思われます。
はしご特別救助隊に期待されたものは火点の火点階、上層階への外部からの積極的早期進入、橋頭堡の確保、排煙口開放作業、付け加えればサルベージ(水損防止)、ならびに内部進入部隊も含めた万一の場合の撤退路確保と掩護のお手本作りの使命が科されていたのではないでしょうか?

3.
横浜消防が特別救助隊を全国に先駆けて創設したのは東消庁に先立つこと5年です。どうも私の感覚からすると老舗の横浜消防の特救創設根拠は高層建築や地下街火災、など新しい時代の特殊災害に対応すべきレインジャー部隊の意味付けにあったようにおもえます。
実際、東消庁のHRの先駆けみたいな横浜の特別消防救助隊の構成は超大型R(RR?)、K201 40m梯子車、大型CXで構成されていました。
その直弟子の千葉消防もRとLRをペアの一部隊として運用し続けて今日に至っております。
さて、東消庁においては火災現場においての人命検索救助最優先という方針から先行部隊の人命救助活動が強く義務つけられていました。
そのPTやP2、CPで運用していた(一部道路狭隘地区ではPMが救助隊に指定されていましたが)救助隊をアップグレードする形で特別救助隊の発足という一種のエリート部隊を創設したわけです。
根底には圧倒的高率の一般木造民家火災をもっとも意識しているようにおもえます。
専任救助隊を高度な器材と特殊訓練でバックアップというのがベースにあるようにおもえます。
実際、過去から現在まで東消庁の専任救助隊を含めた先行隊の一般民家火災での救助実績は他の消防をまったく寄せ付けていないわけです。
第一着隊の覚知後5分以内の現着・活動開始を最重視し続けているわけです。
(大阪消防のように昨年まで特救隊がなくオレンジ服は着せていますがポンプ車主体の東消庁の先行救助隊制度をそのまま維持していたという、今や信じ難い実例も存在するわけです。)
かたやもう一方の特科車両部隊の中の梯子隊LS隊LT隊から同じようにエリート部隊として、はしご特別救助隊が発足したわけで、一般民家火災や交通事故救出は原則的にはやや副次的にとらえているわけです。
どちらかというと生命多数危険火災、高層火災、高所救助、特殊災害が主眼であったように思われます。
そこに東消庁のRとLRとを別部隊として運用した意味合いがあったのではないでしょうか?

やや抽象論的で毎度の長文になってしまいすいません。


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投稿日:09月16日 Rescue119さんのBBSに投稿
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投稿者 taksoho : 05:43 | コメント (0)

千葉消防徒然話番外編 東京消防庁バージョン その3

東消庁の今世紀最大のミステリー???(その2)


千葉市 TAK


−−−東消庁の今世紀最大の謎。(その2)と、かけて−−−

・なぜ東京消防庁のレスキュー車には予備車がないのか?

ミステリアス・・・

−−−−−−そのこころは−−−−−−

ちょうど私めが東消庁覗きを始めたのが昭和44年の永田町11Rの創設時期と大体重なっています。
永田町出張所というところは今もそうですが構造的に車庫覗き込み最悪の作りで、都民PR消防などと
いった有り難くも優しいスローガンが無かったころで、職員にはこのガキが悪戯でもしやしないかと胡散臭い目で見られながらちょろりちょろりと覗き込みにいったものです。
奇しくも我が千葉消防に(昭和45年までは千葉市消防本部の呼称でした。)
トヨタFC100改の救助工作車が初めて配備されたのと期を一にしておりました。
何しろ救助工作車などという消防車両は極端に珍しかったころでそれ以前にはたぶん横浜消防しか持っていなかったのではないかと思われます。
前にも書きましたが千葉消防レスキューは横浜消防の直弟子として昭和41年に最初は33mLR(日野TC30改)と幌付きの資器材運搬トラック(トヨタダイナ)のペアで発足いたしました。
それが救助工作車が千葉と東京の両方でほぼ同時に見られるようになったわけでそれはもうわくわくしながら積載されている弁慶の七つ道具よろしき資器材の多様さに呆れながらしきりにウォッチしておりました。
その後千葉消防の方はやっと昭和52年に2台目の救助工作車(イスズフォワードSCR370改)が配備といったのんびりしたペースでしたが東消庁の方はあっと言う間に大増殖を始め、花形一大ファミリーとして現在にいたっておりますのは皆様ご存知のとおりです。
しかしながらいまやHRを含めて25隊、31台になんなんとする大勢力でありながら当時より今だかつてレスキュー車の予備車が運用されたのを寡聞にして見たことがありません。
(2本HR、8本HR、武蔵野R、足立Rの2型と3、4型への乗り換えを除く。)
他の車種同様レスキュー車でも当然発生する車両故障、定期点検等時に私がずっと見続けたものは署所の予備ポンプ車に呼吸器関係や油圧救助器材などの一部を載せ換えた情けない姿だったのです。
なぜ東消庁ではレスキュー車の予備車運用をしないのか?
たかだか2、3台程度の予備車の運用が出来ないのはまことに不思議な話です。
もっとも予備車がないのは、はしご車も同様です。
トータルでの予備車運用予算の枠絡みでもあるのでしょうか?
すいかさんの札幌消防HPにあるようにレスキュー車の予備車運用は実例が見受けられます。
千葉消防でも昭和56年に3台目に導入した1型救助工作車(トヨタダイナJ−RU20改)をたった1年にして2型と入れ替え、資材搬送車と車種名を変えて予備車運用しておりました。
出初め式や大規模演習時にも非番員が配属されて臨時に増加運用していました。
今に至るまでもミステリーな話です。

(投稿に対してebara71さん、 KEITHさんよりご指摘をいただき、「(旧八王子Rの)古い救助車の代車で出場の上野救助」事例が初めて奇遇にも投稿当日の1998年11月9日に現場で確認されたとのことでした。
みやこまといさんよりいただいた情報では、2005年3月現在で、装備工場に救助車予備車1台あり。
退役した救助車を装備工場で管理し、車検などで入工の際に貸し出しているので、毎年のごとく車両は変わる。
無線コールサインは「装備工場+数字(確か5)」、とのことです。:筆者注)

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投稿日:1998年11月9日 Rescue119さんのBBSに書き込み
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投稿者 taksoho : 05:44 | コメント (0)

千葉消防徒然話番外編 東京消防庁バージョン その4

東消庁の今世紀最大のミステリー???(その3)


千葉市 TAK

久々ミステリーシリーズを投稿させていただきます。


−−−東消庁の今世紀最大の謎。(その3)と、かけて−−−

・LS(屈折式空中作業車)は人命救助には向いていない?!

ミステリアス・・・

−−−−−−そのこころは−−−−−−


LSは中高層建物の人命救助には向いていない?
そんな馬鹿な! と、皆様がそう思われるのは当然の話しと思います。
ところが東消庁の過去の実際の中高層建物災害現場においての外部進入のケースで建物に架梯して人命救出にあたった部隊は圧倒的にL隊が多く、(もちろんLRも含んで。)
救助実績もLS隊については実際比較にならないくらい少ないようです。
ハシゴ隊として2着以内の先着でもない限り積極的な人命救助活動をしていることがあまり見うけられません。
(LTは話しが別。複数の救助実績も実際にあります。)
どちらかというと2出以上の中高層建物大規模災害現場ではL隊が建物正面にずらりと部署して架梯・救助活動を積極的に行ない、LS隊は目前に要救助者が見えるとか他にその車両しか任務を遂行しえないとか緊急性が生じない限り、役割分担的に人命救助は救助隊、特救隊、梯子車隊に任せて同時並行で行われる防禦活動に最初から従事するケースが数多く見受けられます。
(全面的な初期からの救助戦最優先指令に基づく戦闘でない限り救助と防禦は当然同時に行われます。)
消防OBの方の戦術解説で、スノーケル車は高層の救助にはあまり役立たないことは、日本でも米国でも実証されているとはっきり言い切っておられる方も見うけられます。
地方の中小都市の自治体消防では保有台数の関係からスノーケル車がメインにならざるを得ない消防も
あるわけですが東消庁の場合、充実した梯子車の保有台数があるわけです。
LS隊の救助活動がやや不活発な理由としては、私めが思うに、

第1には屈折式空中作業車の梯子の最大作業高の問題があるわけです。
東消庁の通例では15mから23mまでで高さとしては5階程度までで高層、超高層には届きません。
特に火点の上層階で活動するには条件的に不利にならざるを得ません。
アウトリガーを広げた部署スペースの問題や、架梯時に問題になる障害物に対する条件はL隊とたいして違わないと思われますが、この点についてはやや意見が分かれて来るかと思われます。

第2にはこの話はリフターとバスケットがどちらが有効かという問題にも絡んでくるわけです。

東消庁には従来より

・リフターの付いていない梯子車(昭和20年代から40年代初めに活躍した古典型か、その昔の野方署配備の昭和43年製作の いすゞシャーシーの15m梯子車。(車両識別番号2189)のような中層用。
なぜこの野方Lのような中途半端なものを わざわざ製作したのかは東消庁の意図不明ですが。

・かつて東消庁で最も標準的であったリフター付の梯子車。
先端のバスケットは付いていませんでした。
(大体が30m級、一部は、35m、40m級。たまに玉川署にあったような20m級も。 これも中途半端の典型)

・近年のマギラスから始まったリフターなしのバスケットのみの梯子車。
(主に最近の輸入車。かつてのベンツシャーシー、メッツぎ装の車両はリフター付、バスケットなし。)

・現在の主流の国産車両のリフターもバスケットも両方付いた梯子車。
(大体が30m級、一部は、40m級。)

・スタンダードパターンのバスケット付屈折式空中作業車
(2節または3節の20m級、または15m級)
かつては驚くほどごっついトラス構造の梯体でしたが現在は細いスマートなものにかわりました。
昭和38年から40年にかけて製作された中野、本郷、西新井配置の20mの日野のシャーシー車両と
昭和42年製作の堀留のいすゞシャーシーの15mにはエアーラインを搭載していたのが大きな特徴でした。

・バスケット付直進式空中作業車。
(という車両がかつて東消庁に存在しました。20m級。
芝署本署(昭和37年製作:車両識別番号1732)と大森本署(昭和39年製作:車両識別番号1909)に配備されていました。
やはりエアーラインを搭載していたのが大きな特徴でした。)

・垂直伸長式の空中作業車(LT:レスキュータワー車)

などの各種が過去から現在にかけて存在した、あるいは存在しているわけですが、私めの見ていた限りでは高層からの救出は大体リフターを使って要救助者を降ろしていました。
(中には旧型のリフターなしのLで、要救助者が梯子にこわごわしがみつきながら自力で降りていっていくケースもありました。
本当は救助効率から言ったら緊急時の人数多数救助はこの方法が一番良いそうなのです。
リフターを使っての作業は意外に不効率なようです。)
火災現場の煙と緊迫感が漂う中で、火災建物に対して延伸した梯子を隊員がリフターに乗って腕を振って合図を出しながら(中にはチンチンとベルを鳴らしながら)
スルスル上がっていく風景が一般的だったわけです。
ところが近年のマギラスの導入によって(当時欧米に対する輸出大幅超過問題で日本政府の強い要望によって購入が促進されたとも聞いております。
ほんとかな?)
様相は一変し、梯子の伸縮とブーム運動でバスケットを昇降させて要救助者を降ろす方が一般的になってしまったわけです。
(国産車もマギラスに倣って殆どバスケットを付けるようになりました。)
バスケットは着脱式なので旧来の方式も当然選択できるわけですがやはり使い勝手が良いようでバスケットを外しているケースは殆ど見うけられません。
作業に要する時間はあまりどちらも大差ないと思われます。
それなら安全で作業環境にゆとりの生じるバスケットの方が良いのでしょう。
(特に水難活動などでのマイナス角度での延伸ではぜんぜん楽でしょう。)梯子の最先端部分(放水銃のあるところ)の隊員用の足場というのは驚くほど小さいんですね。
ほとんど足を載せるくらいしかありません。あんな状態でグラグラ揺られながら長時間梯上放水作業を続けるなんて殆ど信じられないくらいです。
やはりバスケットの上の方が追加ホースやスタンドパイプ、呼吸器の予備ボンベなど重量物も楽に運び上げられて完全に楽でしょうね。
昔から防禦活動のしやすさではバスケットを付けていたLSはLに勝っていたわけです。エアーラインを搭載していた車両は特にそうだったでしょう。

東消庁のLS隊は現状としては減少傾向を示しているわけでLとの差別化がなくなってきた以上、LSが更に減少傾向を示して行くのは時代の流れとはいえ、仕方のないことなのかもしれません。


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投稿日:1999年2月20日 Rescue119さんのBBSに書き込み
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投稿者 taksoho : 05:45 | コメント (0)

千葉消防徒然話番外編 東京消防庁バージョン その5

救助先行車の名前の由来について


千葉市 TAK

>消防官希望様


この前はお名前を間違えてしまってすいませんでした。
ちょっと横レスで失礼いたします。
たしかに署隊指揮隊車を指してこの「救助先行車」という車種名は不思議に思われますよね。
話は古く、戦後すぐの昭和23年に警視庁消防部が自治体消防組織として東京消防庁として再発足した頃に溯ります。
その頃はまだ現在のような署隊指揮隊の制度はきちんと整備されてはおりませんでした。
通常は署隊の先行ポンプ小隊に大隊長が乗車して大隊指揮車を兼ねておりました。
(この形態は今でも指揮隊の制度の整備されていない中小都市消防で行われています。)
そのころは戦後の混乱期もわずかに一息ついた状態でそれまでは軽かった人命の価値がGHQとの経緯もあってようやく災害現場における人命救助に目が向けられるようになりました。
そこで戦前にあった専任救助隊制度のミニリバイバル版として最先着中隊のうち、先行ポンプ小隊の乗車人員の中の隊員1名を先行員として指定しておき、
(当時のポンプ車は7名乗車が一般的でした。指揮者1名、機関員1名、2口放水2線延長が前提で筒先放水員4名、伝令員を兼ねた先行員1名)
火災事案において人命危険が予測されるときに現着後、水利部署、および、ポンプ操作に従事せず、まっしぐらに火災現場に直行して火元建物・火点の確認、要救助者の目認、聞き込み、進入検索、救助作業の着手、避難誘導、後着特命救助隊員・防禦隊員の誘導、指揮者への情報伝達、および伝令員を1人でこなしていたわけです。
(まあ、現在のクイックアタッカーと呼ばれている消防二輪車先行員の課せられている活動そのものなわけです。)
もちろん当時定員充足の首都の東消庁だからこのような組織的救助活動ができたわけで、他はまだ消防団が主力で消防本部を設置できた都市消防でも空腹と日々の組織運営にひいひいでそれどころではなかったわけで、ほとんど東消庁の独壇場でした。
そして昭和30年3月に東消庁に専任救助隊制度が正式に復活したのですが、専任救助隊が配備されていない出張所配備の中隊などでは継続して先行員が上記の人命救助活動に活躍していたようです。
この伝統がずっと東消庁がアグレッシブな人命救助活動を行ない、他の消防を寄せ付けないほどの救助実績をあげてきたわけです。
そして、大体この頃に署隊指揮隊の制度が充実して出場計画に署隊指揮隊の出場が正式に組込まれるようになってきたようです。
(制度上、はっきりいつから正式通達されたのかはわかりませんが。)
そして署隊指揮隊の大隊長はもとより、指揮担当、伝令担当、情報担当、通信担当の各スタッフの任務がそれまでの先行員の行なっていた要救助者の目認、聞き込みを始めとした諸活動を包括して発展解消させて引き継いだものであったので指揮隊の乗車車両が救助先行車と呼称されるようになったようです。
もちろん指揮隊は救助活動だけを行なうわけではなく、救助・防禦の指揮も同時に行なうわけで呼称としてはやや偏った呼称法なのですが、一つには東消庁においては人命救助を最優先事項とするという大前提を当時から現在に至るまで掲げていますのでこの呼び方が今に至るまでも通っているようです。
また、東消庁以外の同様な例として札幌消防には同時期から照明潜行隊車という部隊が配備されていました。
現場での照明作業はもちろん、東消庁とは違った運用の仕方で先行ポンプ車隊から先行員を割く代わりに特科隊に先行救助任務を帯びさせて専任救助隊に等しい任務を遂行させていました。
このなごりか、今でも照明車を救助照明車と呼称している自治体消防が結構あります。
(千葉消防でもつい最近まで照明電源車を救助照明車と呼んでおりました。
もちろん現場照明が任務で救助活動は基本的にしません。)
最近もてはやされ過ぎのきらいのある特別救助隊、ハイパーレスキューはたしかに実効的で素晴らしい部隊組織ではありますが、建物火災のうち最も数多く発生する火元建物の救助有効時間が極めて短い、一般民家火災においては最先着のポンプ隊の人命救助活動の如何が救助戦の成否を決するのは今でも変わっておりません。

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投稿日:1999年3月11日 ebara71さんのBBSに投稿
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投稿者 taksoho : 05:46 | コメント (0)

千葉消防徒然話番外編 東京消防庁バージョン その6

東消庁の今世紀最大のミステリー???(その4)


千葉市 TAK


−−−東消庁の今世紀最大の謎。(その4)と、かけて−−−


・RP(ポンプ付救助車)の効果はあったのか?

ミステリアス・・・

−−−−−−そのこころは−−−−−−


かつて東消庁には昭和49年から51年にかけて製作されたレスキュー車にA−2クラスのポンプを付けたRPという区分記号の救助車が存在していました。
存在したRPは下記の通りです。

松濤RP 32R 昭和50年配備
新宿RP 42R(大和41R廃止の後41R)
昭和50年配備
豊島RP 52R 昭和50年配備
芝RP 12R 昭和51年配備
本田RP 72R 昭和51年配備

標準仕様の救助車の車体に低床式PTOのA−2級ポンプを追加装備してボディー右横面に放口2口、吸口1口を設け、最初から中継送水を受けることを前提にしていたようで、32R、42R、52Rは1本2mの75mmの棒状吸管を4本、後方ボックスに引出式に予備収納していました。
12R、72Rは75mmのソフト吸管をボディー右横面のホンプ操作パネルに丸めてくくりつけてありました。
ぎ装に際してはポンプ付近、および吸管、ホース収納部分の防水性が配慮されていたようです。

当然積載できる救助資機材がその分減るわけで、それでもポンプを装備したメリットとしては、

1.
送水隊よりの中継送水を受ける、あるいは消火栓なりウォールハイドラントなりの火点最直近水利に水利部署できたとしたらポンプ隊の直接支援を期待せずに自隊での掩護噴霧注水を受けながら安全かつ積極的に進入救助活動が遂行できる。
これは火点付近の排煙と見通し確保の見地からも極めて大きい効果が見込める。
先日、東消庁の特救隊がカバー付ゴム長靴をはくようになったと話題になりましたが掩護噴霧注水が伴えば、これの原因となった青梅R隊員の下半身火傷事故のようなケースが防げる可能性があるわけです。

2.
救助活動任務終了後、ポンプ隊として防禦活動に従事でき、自ら放水圧をコントロールもできる。
延焼阻止後の残火鎮圧活動等もスムーズに行なえる。


デメリットとしては、

1.
前述のように救助資機材を積載できる量が確実に減る。
ポンプ本体、吸管、ホース、管そう・噴霧ノズル・シャットオフノズルの他に、分岐用媒介金具、二又媒介金具、消火栓用媒介金具、消火栓かぎ、スピンドルドライバー、グランドスパナ、65mm/50mm兼用スパナが積載されていました。
基本的には救助作業の遂行が最優先なわけで、技術の進歩に従って追加積載したい新装備品も目白押しに増えていたでしょうし。
そして、果たして進入に際しての入口での余裕をとれるほどの十分なホースの本数が積載できたかどうか。


2.
中継送水を待つ。あるいは水利部署をとってから筒先延長しているより、複数の検索班がすぐに進入救助活動を開始する方が はるかに救助戦の成果が期待できるという考え方も成り立ち得る。
特に最も多く発生する一般木造民家火災の救助有効時間は極めて短く、一説には出火後3分以内という一見不可能に思える数字すら出されています。

3.
現場での水利統制計画の支障にならないか。

4.
特救隊の任務として救助活動終了後、わざわざ防禦活動に従事しなくても排煙口の開放やサルベージ(水損防止作業)、フラッシュオーバーやバックドラフト、燃焼建物崩壊などの突発緊急事態に備えておくなど他に特科隊としてやることはいっぱいあるじゃないか。
特に東消庁はポンプ車の台数と人員に比較的ゆとりがあるのだから。

5.
ポンプと発電装置へエンジンの出力が取られる関係か、不思議にRPの車両にはフロントウインチがどれにも装備されていません。
以降の52年配備の43R(杉並R)、53年の82R(武蔵野R)のポンプなし標準救助車にはフロントウィンチが復活しています。

6.
ポンプをつけるよりは目黒R(だったと思うのですが)のように高圧送風装置を付けた方が救助車としては有効なのではないのか。


他消防の例を見るとポンプ付救助工作車に積極的なのは横浜消防。
万能型消防自動車としての活用を意図続けているようです。
その他、大震災に見舞われたことが記憶に生々しい神戸消防。
千葉県内では市川消防。これはレスキュー車にポンプに加え積載水水槽、鹿野式ホースカーまでご丁寧に装備という、失礼ながらごてごてのジャンルに入りそうな重武装を施してあります。
(余談ですが市川消防と船橋消防はあまり仲がよくありません。排煙高発泡車の元祖製作がどちらかなどといった意味があまりよくわからないことで張り合ったりしています。)
そして東消庁に関しては現在はRPは1台もありません。
かつて作られたRPは更新時にすべてポンプなしの標準車に切り替わりました。
と、いうことで結論はでているようなのですが、東消庁においてはRPの効用はあまり評価されなかったようなのです。
やはり中途半端だったということなのでしょうか。

ところが、最近、江戸川署や新宿署など特救隊配備の署隊では人員削減を意図してか、先行のポンプ2小隊を廃止してペア運用を取り止め、その代わり救助車を連携指定隊・先行小隊としてポンプ送水小隊とペアに近い運用をしているのが目につきます。
また青梅R隊員の火傷事故以来特救隊への掩護噴霧注水の必要性がクローズアップされています。
これだったらRPの復活が再び考えられても良いのではとの思いに今更ながらかられます。

いかがなものでしょうか。

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投稿日:1999年4月12日 Rescue119さんのBBSに書き込み
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投稿者 taksoho : 05:47 | コメント (0)